平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

朝カルでの「監督術」を終えて。

すっかり秋めいた感じがする神戸である。ここ鈴蘭台では夕方になると少し肌寒く感じるほど涼しくなった。暑さがだんだん遠のく気配が感じられてどことなく寂しい感じもするけれど、考えたり食べたり読んだりときどき動いたりするにはほどよい気候でやはり望ましい。車のエアコンが故障している現状からすればもってこいの涼しさである。最近は電車移動ばかりでほとんど乗っていないのだけれど。

先週の土曜日は朝カルでのトークセッション。「帰ってきた武術的立場な男たち」のシリーズ第二弾で、内田樹先生、守伸二郎さん、高橋佳三さんと、「監督術」というテーマでワイワイおしゃべりしてきた。聴きに来られた方々の温かなまなざしに包まれて終始和やかなムードだったものだから、まさしく居酒屋の延長みたいなノリで話をすることができてとても楽しませていただいた。

高橋さんの野球の話に感化されて啓光学園の強さの秘密について思うところを話してみたら、横に座っておられた内田先生の快刀乱麻を断つような解釈に深く納得してしまった。なるほどそういう風に考えた方が自然だなと今でもよくよく噛みしめている。

どういう内容だったのかと言うと、2002年から2005年にかけて全国高校ラグビー4連覇という偉業を達成した啓光学園は、観る者を魅了するほどの強さや上手さを身につけたはずの選手が卒業後に伸び悩んでいる傾向にある。その理由を、啓光学園独自のスタイルに順応し過ぎて、大学進学後に新しい戦術や戦法に馴染めずジリ貧に陥ると僕は考えていた。アタックにおいてもディフェンスにおいても、そのチームでの確立されたスタイルに順応することがラグビーというチームスポーツには必要不可欠であり、いくら身体能力が高くてもチームが目指す方向を理解してある程度は同調しなければ試合に出ることは難しい。あまりに啓光学園スタイルを身体化させたが故に、こうした順応性に欠けるということがあり得るのではないかと、どちらかと言えば悲観的な見方で考えていたのである。

しかし内田先生は違った。もともとそんなに身体能力の高くなかった選手たちが、お互いの信頼を高めてまるで多細胞生物のように15人が一糸乱れぬ戦い方ができるようになった。たぶん、大学進学後に頭角を現す選手が少なくというのはそういうことなんじゃないのかなあと、あっさり言われて「あっ、なるほど」と自らの浅はかな考えが露呈されてちょっと恥ずかしくなったのであった。確かに言われてみれば啓光学園の選手は例年カラダはかなり小さい。大型化傾向にある昨今の各高校には180cmを超える選手がゴロゴロいるが、啓光学園はそうではない。

なるほど、そういうことだったのだな。自らの高校時代を締めくくる最後の試合が対啓光学園だったことで、あまり悔しかった当時の思い出が心に沈殿していたから無意識的に悲観的な考えをしていたのだなと、自らの嫉妬深さが突きつけられた気がする。オレってちっちゃいよなあ、ふう。

まあそんな話もありながら、打ち上げでも大いに盛り上がって楽しい一日を過ごせたのでした。これからも今日の日本を席巻しているスポーツ教育のあり方そのものの見直しを、コツコツとやっていく所存にございます。それにはまず、スポーツ科学がもたらしている様々な影響をじっくりと腰を据えて研究していかなければならないと、このトークセッションを通じて改めて感じました。スポーツ界では古典物理学的な考え方の域を出ない近代科学への信憑が以前として強く残っています。「食べる」ことを根源的に問うことなしのスポーツ栄養学にしてもそうだし、力の源は筋肉でありそれを鍛えることがパフォーマンスの向上に直結すると、さも当たり前のことのように指導されている。なんかねえ、そう単純にものごとを考えるのはもうやめにしませんか、と言いたいのです。単純でわかりやすい理論は、わかりやすいだけに現場の人間が実践する際にはどこかに必ず不具合が生じるのだから。

まだまだ研究が浅くて言及するのは尚早な気がするのですが、そうとわかりつつもちょっとだけ書いておくことにすると、つまりは現象学的な手法でスポーツにまつわる問題を問い直してみようと思っているわけです。現象学的な手法というのは、言ってみれば論理的で客観的な世界であーだこーだと考えるのではなくて、私たちの生が営まれている生活世界に軸足を置いて事物を考えていこうやないかということです。心とカラダを切り離すことなく一つの身体として考えていこうやないか、ということです。

というわけで今日も中村雄二郎の「臨床の知」についてあれこれと読み書きしていたのであった。デカルト以来の機械論って今も社会を席巻しているよなあとか、フッサールの超越論的現象学ってちょっとかっこええんとちゃうんとか、ポランニーの「暗黙知」という概念はそのままスポーツ教育にあてはめられるやんかとか、そんなことをあれこれ考えながら一日を過ごしていたのである。

窓を開けて書いていたら冷っとしてきた。さあ帰ろう。