平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

冬休みに入るにあたって。

人志松本のすべらない話“ザ・ゴールデン”』を途中で見るのをやめてこれを書き始めている。「すべってるんとちゃう?」という話まで半ば強引にすべらない話にしているような雰囲気が伝わってきて、あんまり面白く感じられなかったからテレビを消した。昨年までは録画して繰り返し見るほど好きだったのに。番組の質が落ちたのか、それとも僕自身の感性に変化が生じたのか。いずれにしても面白くないものに時間を浪費したくはないのであった。

さてさて、昨日で年内の大学における仕事が終わり、本日をもってSCIXラグビークラブの練習も終わった。これでようやく休み気分を存分に味わえるぞと思うとホッとする。大掃除にお墓参り、年賀状(そう、まだ書いていないのである)、学内の紀要に載せる論文のテーマ選定、積ん読本の目減らしなど、休み中にやるべきことはまだ残っているのだけれど、でもそのほとんどは年末行事であったり、自らの研究に関することであったりするので、大きなストレスにはならない。むしろ、標準的な日常生活に身を浸せる日々を想像するだけでよろこびすら感じる。ほとんどをひとりで過ごして、たまに気が置けない友人たちを食事やお酒を嗜むという日々はやっぱりいい。会いたくない人に会わずにすむのだから余計なことを考える必要もないわけだし、ね。この冬休みはそうして過ごして英気を養うことにしよう。

やはり、人と人が会って話をするとお互いに何かしらの影響を及ぼし合う。
たとえことばを交わさなくとも目と目が合うだけであってもそうだし、目が合わなくてもたくさんの人が居合わせる場にいればその場にいる人の分だけ何かしらの影響を受けるわけである。もちろん自分が誰かに及ぼすこともあってのことだが。

なぜそうやって影響を及ぼし合うのかと問われれば、人という存在は関係性の中で立ち上がってくるものだからであるという他はなく、つまり僕が「息子」なのは「母や父」がいるからであり、僕が「兄」なのは「弟」がいるからであり、僕が「先生」なのは学生がいるからであるという理屈から考えてみるとわかりやすいと思うが、そういうことである。

「名前」という制度を考えてみてもわかりやすいかもしれない。考えてもみれば「名前」というのは、自分以外の人が自分という存在を認識するための制度である。だから「名前」は、自分のことを呼ぶ誰かがいるという前提にたって存在している。僕が「剛史」から「剛」に改名したことを誰も知らなければ、どれだけ自分のことを「剛」だと思い込んだところでいつまでたっても「剛史」である。「名前」を変えるということのそもそもの意味はまだよく分かっていないけれども、「名前」という制度については、自分以外の誰かのためにあるものだということは間違いなく言えるわけで、それはつまりのところ人と人とが関わり合うためのものであり、関わり合うという前提にたっている。だから初対面の人とは名刺を交換したり自己紹介をするわけだし、自分の名前を覚えてもらっていないことに学生たちは深く傷つくのである。

「素の自分」なんてものは幻想に過ぎなくて、いついかなるときにも自分には「他者」という存在がいる。その「他者」と分かちがたくひとつの存在としてあるのが「私」なのだろうと思う。だからたくさんの人と関係性を持てば持つほどに「私」は細分化されていき、どれが本当に自分なのかがわからなくなって悩んだりする。このときに、そのどれもが自分なんだと思えれば楽になるのだけれど、ね。そうしてウジャウジャした「私」を少し落ち着かせるためには、洗濯や掃除をしたり、趣味に没頭したり、気が置けない友人たちと楽しく過ごすといった平穏な生活を送る。変化の乏しい流れの中に身を置いて「私」の増殖を沈静化させることで、心もカラダもリフレッシュするのだと思う。

さらに話をややこしくすると、この「関係性」もが「他者」のうちに含まれているということになる。内田先生によれば、「他者」には、他人という意味のみにあらず「私ならざる者」という意味が含まれている。だけれども、そこらあたりを今の僕には到底うまく説明することができない。でも、なーんとなくはわかっている。ような気がしているので、またおいおい、あーでもない、こーでもないと書いていくことにしよう。

というわけで冬休みの始まりである。