平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「ノーサイド精神」身体観測第63回目。

 元豪州代表で世界最多の139キャップを持つ、あのジョージ・グレーガンが「ノーサイド」という言葉を知らなかった。さらには、豪州代表監督、南アフリカのテクニカル・アドバイザーなどを務めた経験を持つ世界的な名コーチであるエディ・ジョーンズさえも知らなかった。これにはどうにも驚きを隠すことができない。

 試合が終われば敵味方の区別なくお互いの健闘を称え合うという精神がラグビーには宿る。日本ではそれを「ノーサイド精神」と呼んで、「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」を意味する「One For All, All For One」と並び、ラグビーの魅力を表す言葉として何のてらいもなく日常的に使用している。私はてっきり「ノーサイド」はラグビーに固有の言葉であり、その起源は発祥にまで遡ることができて、近代化の影響を受けながらも今日まで大切に守り育まれてきたと思い込んでいた。

 確かにその精神性は発祥の頃から長らくの変遷過程を経ながらも守られてきた。グラウンドの中では激しく戦い合い、試合が終われば互いに友情を結ぶ。これこそがラグビーに底流する思想であり、ラグビーラグビーたる所以である。

 現役時代、秩父宮ラグビー場に風呂は一つしかなく、試合直後に相手チームの選手と素っ裸で顔を合わせながらの談笑が楽しみの一つでもあった。負けた直後だと悔しくないわけがないが、そうした感情を露骨に表した態度は格好悪いと信じ込んでいた。当時はそれほど気にも留めずにそれが当然のことだと感じていたけれど、今になって思えばまさに「ノーサイド精神」を体現していたということになろう。

 まさに体現しているときに言葉は必要なく、至極当然なことに名前はつかない。もしかすると世界との壁がスキルではなくラグビー観の違いにあることを、はしなくも突きつけられたような気がしている。

<08/12/16毎日新聞掲載分>