平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「敢えてしないでおく」という振る舞い。

どうやら風邪を引いたようである。疲れがたまってきたら鼻の奥の方が疼いてきて、それが頭痛になったり鼻炎になったりするのが、いつもの僕の風邪の引き始めで、まさに今そのような状態にある。ここで持ちこたえられれば軽症に、ここで無理をすれば悪化する。これまでの経験からは間違いない。

しかしながら今年は世間の様子が違う。インフルエンザが流行っているのでその疑いを晴らす必要がある。たぶん、おそらく、いやいや絶対に大丈夫なような気がするが、まあでも一応は病院に行っておこう。他の人に迷惑がかかるのは避けないとね。あーしんど。

それにしても、何が正しくて何が正しくないのかがわからなくなるというのは、本当にしんどいことである。「正しい」という表現がいかにも堅苦しいというのなら「当り前なこと」とでも表記するが、とにかく生きる上での基準となるべき常識が揺らいでしまうと途端に人間はナイーブになる。少なくとも僕はナイーブになる。いろいろな事にも嫌気がさしてくるし、とことん機嫌が悪くなる。たぶん今の僕は怒っている。

何に怒りを覚えているのかがはっきりしているので、それをツラツラと書くことは角が立ち過ぎてエライことになる。だからここでは書かない。それならその話題に触れなければいいじゃないかと思われる方がいるかもしれないが、立て板に水のごとく割り切れないのが心情というものである。こうしてもったいぶって書くことにはおそらく無意識的な意図があって、「何事かに怒っている」という今の気持ちを誰かにわかって欲しいという願いと、怒りの対象となっている何事かについてもどうか察して欲しいという願いが渦巻いている。気持ちをわかってもらって、さらにはその先をも察してもらえたら幾分かは怒りが静まるわけで、おそらく僕はそのことを期待しているのであろうと思われる。てへ。

なーんにもわかっていない人には何を言ったところで通ずるはずもなく、そこには「バカの壁」がどーんと立ち塞がっているのだということを学んだのは養老先生からである(師匠である内田先生が養老“先生”と仰っているので僕もそう呼ぶことにした)。話をすれば、言葉を重ねればいずれは理解に至るというのが全くの迷信であること。そのことへの気付きは僕にとってとてもとても大きなことだった。それまでの僕は「話せばわかる」と頑なに信じていたからである(今もその嫌いは残っており、そんな自分をみつけたときはちょっと意気消沈する)。成就するはずもないのにお酒を片手に熱弁をふるっていたあの頃が甘酸っぱくもあり、思い出すとちょっとどころかだいぶ気恥ずかしい。今はもうやめた。いや、やめようと努めているというのが正確なところか。

「そもそもこれってこうだったよね…」というそもそも論が通用しないのは、物事の起源を辿ろうとする意識が希薄であることに他ならない。今、世の中に存在している「制度」は然るべき道程を経て現存しているわけで、もしも今日に至るまでに致命的な不備があったならばその役目を終えて消滅しているはずである。もしくは息も絶え絶えで何とか成立している状態にあるだろう。そうではなく、いまだ活発に存在しているということは、その「制度」にはまだ存在すべき理由があり、だから機能性も損なわれずに残っているのである。それをさ、迫りくる不況を言い訳になんでも正当化して、簡単に「制度」を変えようとするのはもうやめにしませんか。

確たる信念と長期的なビジョンを描いた上での<変化>は必要だ。でも、その場の思い付きだけをもとにした「変化」は百害あって一利なしだと思う。「変化」には中毒性がある。手柄をあげよう、汚名挽回しようと躍起になる人は、そのうちテキトーにその辺の穴を掘って自らが埋めてほらオレってこんなに頑張ってるんだよというアピールをしかねない。その穴掘りや穴埋めに大勢の人が駆り出されて、駆り出された人の心には虚しさだけが残るといったことにもなる。なぜここに穴を掘るのか、“そもそも”穴を掘ることが必要なのか、そうした問いを共有することから始めるべきものが<変化>なのではないだろうか。

ここである言葉が頭をよぎる。

「しなければならないとおもわれてきたことをしないことがこの社会を変えることにつながるようなひとつの超絶(@鷲田清一)」

鷲田氏が「老いる」ということについて書かれたコラムの中で見つけた言葉である。見境なく手応えを求めるのは若いうちだけで、齢を重ねていくうちに敢えてしないでおくという振る舞いを覚えていくのだと氏は言う。言葉で言うのはかんたんだけれどこれは相当に難しいことだ。よほど自分がしっかりしていなければ自分というものの存在が感じられなくなり、途方もない寂しさに包まれてしまうからだ。でも、逆にこういう風にも思う。敢えてしないでおくという振る舞いに努めていると、ある時に自分がすべきこと、自分にしかできないことに気付く機会がやがて訪れるんじゃないかと。

「しないでおくこと」は連綿と連なる伝統を受け継ぐことでもある。それはつまり時間の流れに身を委ねるということだろう。「変化」ではなく<変化>を求めるのならば、結果的には何もしないでおくという逆説的な結論が導かれるのは面白いところだ。

そう自分に言い聞かせてまた明日から粛々と毎日を刻もうと思う。最後に、今日のところはいささか愚痴っぽくなってしまったことをお詫びしたいと思う。どうもすんません。