平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「空間認識の差」身体観測第84回目。

 ラグビーファンならお馴染みのブレディスローカップが国立競技場で開催された。ブレディスローカップとは、ニュージーランドとオーストラリアが互いのプライドを賭けて戦う国際対抗戦である。かつて私もプレーした国立のピッチで両国の選手たちが組んず解れつしているのを観て不思議な気持ちになった。見慣れたグラウンドに見慣れない選手が群がる光景に奇妙な印象を抱いたのである。

 とにかくやたらとグラウンドが狭く感じられた。日本の選手に比べてとりわけ身体が大きいのも一つの理由だが、それよりも選手ひとりひとりが受け持つ空間の広さが違うという理由の方がしっくりと腑に落ちる。選手が意識している空間認識の射程が広いのである。

 たとえば攻撃の場面で前進を目論むボール保持者は、眼前で行く手を阻ぼうとする相手選手だけでなく、その背後にいて虎視眈々とタックルを狙う選手を警戒したり、そのまた背後に立つフルバックのポジションを確認したりと、近辺だけに注意を払うのではなく遠方にまで意識を届かそうとしている。パスをもらおうとフォローする選手や少し離れたところにいて直接プレーに関われない選手も、それぞれの情況をより広域に渡って把握しようと努めている。

 こうした奥行きと厚みのある空間認知が重なり合うことによって、誰の意識にも手つかずな隙間がグラウンド上に存在しなくなる。つまりこの隙間の無さが、俯瞰的な視座からみつめる観戦者にはグラウンドの狭さとして感じられるのである。

 どこにキックを蹴ったところでいとも簡単にキャッチされるような、どこを走っても誰かにタックルされるような、おそらくはこうした実感を引きずりながら選手はグラウンドレベルでは見えないはずの空間を認知し、わずかに生じた隙間を縫ってトライを決める。やはりすごい試合だった。

<09/12/01毎日新聞掲載分>