平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

もうひと踏ん張りするためのグダグダ日記。

昨日今日と積み上げられた答案用紙に目を通し続けて、ほとんどの科目に成績をつけ終わる。提出期限は来週の月曜日。この土日はオープンキャンパスでミニ講義やらなんやらで仕事があるので、月曜当日に最終確認をした後に教務課に提出する予定。成績を提出さえすればようやく夏休み気分になるだろう。休みといえども研究業務にはいそいそと取り組む予定なので大学に来るペースはほとんど変わらないけれど、気分的にはずいぶんゆったりできる。わーい。

よくよく考えてみると、これで3週連続週末は休んでいない。そりゃどこか精神的に余裕がなくなるはずだぜ。特別な理由もなくあくせくしている自分に嫌気がさす前に、心を緩めてみる必要があるな、うん。

それにしても忙しい。と僕は感じているし、思ってもいるし、実際のところもたぶんそうだ。でも「忙しい」という言葉はあまり頻繁に使わない方がいいのではないかという脅迫めいた確信が僕にはあって、だから忙しぶっている自分のことがあまり好きではなく、この状態が続き過ぎるとどことなく嫌気が差してくるのである。

とまあこの先を書き連ねていくとさらに自分のことに嫌気がさしてきそうなので、この辺りで切り上げようとは思うけれども、でもね、やっぱり人間には限界というものがあって、身体というものは有限なわけだからそれに見合うだけの仕事量で落ち着くっていうのが理想なわけで、あれもこれもそれもどれもに関わっているとやはりどこかに軋みが生ずるわけである。若いうちはとにかく可能性を広げる必要があるから「身体は有限だ」などと落ち着いていてはいけないのだろうけれど、好むと好まざるにかかわらず年齢は重なっていくわけである。身体の衰えとともに可能性も狭まるわけで、だからいつまでたってもありったけの力を出すために力めばそれだけのダメージを被ることになる。

若いうちはとにかく一所懸命に何事にも打ち込んでおけばよかった。自らの限界を超えようと努めることが成長につながっていたように思う。限りなき広がりを望み、自分にはどれだけのことができるのかを知りたくてもがき苦しむことで、自己の限界は押し広げられた(と実感している)。

でも、このような心構えのままで突っ走ればエライことになるはずだ。おそらくは身体が必ず悲鳴を上げる。「おいおい、いつまでも無理はできんぞ」と、ある日身体が語りかけてくるだろう。そして何らかの病を宿すことになる。

だからたぶん、人生のあるポイントからは自らを限定する方向に進む必要があるのだ。自分には何ができて何ができないのかを知り、「できること」に力を集約すべく作法を身につけないといけない。自分に何ができて何ができないのかを知るためには、他者の声に耳を傾ける必要があるから、そう簡単にいくわけがないことは百も承知だが、大枠の考え方としては大きく外しちゃいないだろうと思う。

ただ、この心的な切り替えが怖いのは、あまりに限定志向が強すぎると成長する契機を逃すことになる。成長するすなわち学びは、自己を開いていくことだからだ。あまりに閉じればいつまでたっても同じ自分のままで、同じ場所に立ちつくすだけとなる。おー、こわ。

とかなんとか頭で考えながらも、実のところは懐が甘くて開きっぱなしのマッシュルームであるから、それを自覚しているからこそ閉じていく方向に思考することができるとも言えるわけで、なんともややこしい感じではあるが。

限定する方向で物事を考え始めるには危険がつきものではある。そんなことはわかっていながらもこうして書き連ねているのは、「老いる」ということを無意識下で考え始めてしまっているからだろうと思う。僕自身が「老いる」には時期尚早であることは百も承知なのだが、しかし「老いる」ということを考え始めるタイミングとしてはそれほど早すぎるとは思っちゃいない。老い損ねている人たちはあちらこちらにたくさんおられるから、敢えてこうして書いておかないと自分が保てなくなるような危機感が訪れるのである。

おっともうこんな時間だ。そろそろ帰路につくことにしよう。
グダグダ日記にここまでつき合わせてしまってすまない。