平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

邪悪なものよ、しずまれーい。

今まさに『邪悪なものの鎮め方 』(内田樹木星叢書)を読んでいる影響からか、身の回りに存在する「邪悪なもの」への感度が上がっている。さほど注意を払わなくてもそこらあたりに「邪悪なもの」が存在している現実に、とても驚かされる。「邪悪なもの」が邪悪であることに気がつかなければ、いつのまにか私という存在に忍び込んでじわじわと身体を蝕んでゆく。「邪悪なもの」を邪悪なものとして感知するにはそれだけ身体感受性を高めておかなくてはならないが、ただ高めるだけでは「邪悪なもの」の邪悪性に耐えきれずに破綻する。あくまでも身体感受性を高めるのは「邪悪なもの」を邪悪なものだと認識するためであり、それは「邪悪なもの」を邪悪であるとはっきり認識できればそれなりの対策を練ることができるからである。

殴られれば鼻血が出たり痣ができたりするから、こうした「目に見える悪意」は比較的対処が容易である。しかし、満面の笑顔を持って話術巧みに襲いかかる「目に見えない悪意」は対処のしようがない。今まさに襲いかかってくる悪意が悪意であることに気付かなければどうしようもなく、それから時間が経過して自らの身に何か問題が起こった時に、初めて悪意だと気づくケースがほとんどである。あーこわ。

だからといって「邪悪なもの」に警戒心を働かせながら毎日を過ごすわけにもいかない。なぜなら「邪悪なものに警戒心を抱く」という緊張状態がすでに「邪悪なもの」だからである。精神状態を高ぶらせていついかなる時も気を抜かないという状態は、心身にとってよいわけがない。そんな状態で毎日を過ごせばいつの日か精根尽きはててしまう。

「ほな、どないしたらええんでっしゃろか」ということになるが、この問いの答えは自身が思考を繰り返した上で掴む以外に方法はないだろうと思う。それの手引として『邪悪なものの鎮め方 』を読むことをお薦めする。おそらく今もボクに向かって「邪悪なもの」は容赦なく襲いかかってきているのだろうが、「邪悪なものを鎮める」という姿勢に人間の人間性が宿るのだからそれほどボクは気にしちゃいない。「邪悪なもの」がボクを襲っているなんてことなどあるわけがないと意識から外してしまう方がとても恐ろしい。

なぜこんなことを書く気になっただろうと振り返れば、あの日にある人から驚くべき暴力的な言動を浴びせかけられたことが脳裏に浮かぶ。「ああ、そうか、あれか」と平然と装うのはあくまでもフリをしているだけで、このブログを書き始める前提にそのことは無意識的に気付いていたのだろうと思う。あの日の言動がボクのどこかを揺さぶったのは確実で、不快を通り越して憤りにまで達するに十分だったこの揺さぶりを取り除くためにおそらくボクはこのような文章を綴っているのだろう。まさに邪悪なものを鎮めるために。

本当に世の中にはいろんな人がいる。

「ええ加減にせえよ」という一言が言えればどれだけ楽になろうと思うも、「それを言っちゃあおしまいよ」という気持ちもあって「ああ」とつぶやく他ない。「ええ加減にせえよ」という気持ちをグッとこらえたら「いっちょやったろやないか」となんだかやる気が湧いてきた。こうなったら「ええ加減にせえよ」という気持ちをせっせと燃やして研究や教育に勤しんだろやないか。

という感じに鎮めることができればいいのだが。