平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

センター入試を終えたあとの大げさな感想。

朝から晩までかちこちになったセンター入試試験監督を無事に終えて、今日も元気に研究室で研究業務に携わる。正確に言えば研究ではなくて、明日、明後日の講義の準備と恒常的な仕事を今の今までしていたわけだが、それにしてもこの土日は疲れた。「機械になる」というのはやはり至難の業であった。心身にかかる負担は小さくなくて、昨夜はまるで死んでしまったかのような深い眠りを貪ることになった。すべての日程が終了した直後に後から後から湧いてきた開放感とその陰に隠れてものすごい勢いで押し寄せた空腹感が、この2日間のストレスを物語っていたように思う。解散するや否やこの日行われたトップリーグの試合を見るために慌てて学校を飛び出し、帰る道すがら【CoCo壱番屋】に立ち寄って腹いっぱいにカレーを食べてほっと一息。家に帰り着いて珍しく缶ビールを飲みながら東芝の強さに見入っているところで、ようやく身も心も少し落ち着いたようであった。

センター入試に関する話題にリスニング時に起こるトラブルがある。今まで新聞やテレビのニュースなどでしか知らなかったので、「ええ加減に仕事をしてるからちゃうの?」という他人事な感じで軽く意識の上っ面をスルーしていたのだが、実際に経験してみるとそんなに軽々しくほざけないことに気がついた。センター入試を統括する方々が、神経を尖らせながらどれだけ丁寧に仕事をしておられるかを目の当たりにしたからである。誠に思い上がっておりました。なんせ試験中は物音ひとつ立てることは許されないし、だからうろうろと歩き回ることも許されない。ただただ受験生が手を上げないことだけをお祈りしながら30分間仁王立ちすることのつらさといったら、ない。ここに自分がいるのにいないものとして自らを認識することのつらさというか、なんというか。

「音を出してはいけない」という縛りを自分自身で意識しすぎたのか、なんと、途中から唾の飲み込み方がわからなくなる。「ごくり」と飲み込むと音がするんじゃないかと気にし出したとたんに、「あれ、オレっていつもどうやって飲み込んでたっけ?」という混乱が生じてしまったのである。ムカデが足の動きを意識したら歩けなくなったという、まさにあの状態である。

意識が喉というか口に向いていると、普段そんなにたまることのない唾がどんどん口中に広がってくるから不思議である。飲み込む度に「ごくり」と音がするし、毎回飲み込み方が違うからときに空気まで一緒に飲みこんでしまうこともあって時折ゲップも催してくる。もうてんてこ舞いである。そうこうしているうちに、あまりに静かなもんだからシーンとなったその状態が逆に耳をつんざくような感覚にも陥ってきて、そんななんだかよくわからない状態の中でひとり唾の飲み方に苦心していることがだんだんおかしくなってきて、笑いが込み上げてくる。そんなこんなしてると、もし今ここで大声を出したらどうなるやろか、なんて相当危険な試みすらも心に浮かんできて、混乱への入り口で右往左往している自分がどうにもおかしくておかしくてたまらなくなった。

こんな奇特な状態にいたのはおそらく僕だけだろうが、しかし「機械になる」というのは身体にとってあまりよろしくないことのようである。「臨機応変に対応してはいけない」という縛りがどれだけ心身を蝕むことになるのか、その一端を垣間見たような気がしてよほどいい経験をさせてもらったと思う。また、公平さを保つことにどれだけの時間と労力がかかり、また、公平であることの本当の意味についても身を持って考えさせられた貴重な経験だった。外形的な判断のもとに築かれる公平さなんてほとんど意味はないし、それはこの世において達成され得ないものだと思う。「ここまでやれば納得するだろう」という基準にどれだけ近づけられるかが入試をする側にとっての大きな問題で、受験をする側は「納得」が得られればそれでよいのだから、公平さなどというものの姿形は限りなく曖昧である。双方の一致がなされない限りは達成し得ないのである。

センター入試というものの社会的な意味を考えてみれば、ここで僕がくどくど書いていることはまさにナンセンス極まりないものだと思うが、ただ「公平さ」というものの本質について思考を働かせてみればこういうことになるんとちゃうの、ということが言いたいだけなので、そこんところは気持ちを汲んでくだされば有難い。

言ってしまえば「公平さ」は人間を矮小化する。センター入試において試験を受ける人間は「受験生」に矮小化され、センター入試を担当する教職員は「試験監督」に矮小化する。資本主義経済においてはすべての国民が「消費者」に矮小化される。人間が社会で生きていくためにはこの矮小化は避けられないとは思う。矮小化とは、社会集団の中で一つの役割を担うことだと解釈すればなおさらである。私たち人間はひとりでは生きていけない。それと同時に人間は、他の誰でもなく自分は自分であるという実感を感じ、それを他者から承認してもらうことなしに生きていくこともできない。自分という個性を損なわずに、周りの人たちと手を取って協力しながら生きていくこと。あー、生きるってなんて難しいことなんやろうと、改めて、改めて、思うわけなのである。

ことばというのは本当に不思議で、ある一つのことばについて深く掘り下げていけばいくほど、そのことば自体が不必要なもののような気がしてくる。「公平さ」だって、日常的にこのことばを使わずにいた方が結果的に「公平さ」が保たれるように思うし、「健康」だってそうで、健康な状態というのはまさに「何にも感じない」状態なわけであって、だから「健康」ということばを日常的に繰り返し使わなければならない事態こそが不健康さを表すことにもなる。「幸福」だってそうだろう。「幸福」ってなんだろうと、日々考えている人が幸せだとは到底思えない。

ことばは意識をそこに固着させ、その意味を考える機会が付与される。深部まで踏み込んであれこれ考えているうちに、次第に考えていることがなんだったのかよくわからなくなってきて、結果的にそのことばの実相が透かしがかる。そういうもんなのだ、きっと。

おっ、18時を過ぎた。さて、今日のところは帰ることにするか。