平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

『ターミナル』とビールに日本酒。

今し方ビールを飲みながら映画『ターミナル』を見終えた。かれこれもう何回見たのか覚えていないけれど、僕はこの映画が好きである。どこが好きかと訊かれても上手く説明できそうにもないのだけれども、ただひとつ確実に言えることは、トム・ハンクス扮する主人公のビクター・ナボルスキーに僕が心に抱いている「強さ」をみることができるところに魅力がある。どんな邪魔が入り、どんなことが起きようとも「父との約束を果たす」というその信念を貫こうとするその姿勢に、僕は人間の「強さ」というものを投影する。

社会的な権力に頼り切り、みるからに偉そうに振る舞う人は実のところ心に不安を抱いていることが多い。というのが、これまでのたった33年の人生経験の中で僕が感じていることで、誰がみても強そうに見える人ほど精神的な脆さを秘めているってことに強い確信を抱いている。だからそうした人たちに対してあんまり格好よろしくないなあと思っているのだけれども、ふとたまーにそうした見せかけの強さを求めている自分自身が顔を覗かせることもあって、そのときはたっぷりと自己嫌悪に陥ってしまう。自分が他人にどのように思われているのか、それを過剰に気にし出したときに見せかけの強さを求め始めることが多い。張りぼての強さを無意識に求め始めてしまい、それに気付いてあーあと自分で自分が嫌になったりもする。

ビールの後は頂き物の日本酒をぐいぐいといってるものだから、今はいささか酔っぱらいモードでこうして書いているわけなのだけれど、酔っぱらっているときほどパソコンのキーボードを打つ指の動きが滑らかに感じるのはどうしてだろうか。最近は書くってことにかなりの自主規制を試みているみたいだから(無意識に)、それからのギャップで余計にそのように感じるのかも知れないけれど、今はどうにもスムースに言葉を紡ぐことが出来ているように実感している。極々私的なブログということで、まあ酔っ払いながらの文章もどうにか許容してもらえたらなあとは思っているのだけれど。

ということで憮然とこのまま続けて書いていくが、まあ何というか、家でひとりでお酒を煽っているってことはやはりそれなりのことが今日はあって、そのことをどうにかこうにか自分の中で乗り切るためにまあ酒でも飲んでみるかとなったわけである。もともとはお酒が好きというよりは、気の置けない人たちと食べたり飲んだりするのが好きなので、ひとりの時はお酒を飲みたいとはあまりというかほとんど感じなかったりする。それでも今日はなんだか飲まずにはいられなかったし、ちょっと好きな映画でも見てリフレッシュしとかんと、いう心持ちだったのである。

そしてその映画が『ターミナル』であったというのもまたオモシロい。
ビクター・ナボルスキー像を人間として強いよなあと以前に見たときから感じていたのだから、たぶん僕は「強さ」とはなんだろうとどこか無意識に考えていたのだろうと思う。邪魔を邪魔とも感じないほどに自らの信念に基づいて行動する、という強さに僕は心底憧れる。ということはまだまだ自分が弱いということを自覚しているということなのだけれども。

強くなりたい。僕は常々そのように思っている。でも「強さ」の正体は未だはっきりとことばでは説明できないでいる。少なくとも今の段階では、世間的に認知されている「強さ」とは大きくかけ離れていることだけは確かではある。権力というものに裏打ちされて上から目線でものを言うような記号的な意味での「強さ」を求めているわけでは決してない。経験の多寡だけで自分よりも年少の人間に偉そうに振る舞うことだけは絶対にしたくないと思っている。

でもあまりにそのことだけに固執してしまうと、人によっては「あ、この人は強くものを言わないぞ」と舐めてかかってきたりもするわけで、そんな人たちを目の前にすれば心中穏やかではいられるはずもない。もともとは、これまでスポーツをやってきて根本的には負けず嫌いであり、また先輩を敬わないなんて行為は絶対に許すことはできない質なので、目上の人間に対して軽々しい態度を取る行為は断じて許されるべきではないと強く思っている。


教育というのは本当に難しいと、まだ大学教員としての歩み始めてから1年足らずなのにその思いは果てしなく膨らんでいる。学生たちを子ども扱いしたくないと言う気持ちでこの1年は取り組んできたけれど、予想以上にまだ子ども的な部分を持ち合わせていることに些か困惑している。大学生に対して上からものを言うのは人間として失礼だとそう自分に言い聞かせてきたが、ここにきてそれは僕の中での理想に過ぎなかったのではないかという迷いが生じてきている。子ども扱いすればいつまででも子どものままでいることを余儀なくされる。そう信じ込んでいた。でもどうなんだろうか。子どもにはまともに子ども扱いをして、ものごとを一から教えなければならないのだろうか。教育に関わり始めたばかりの僕にとっては、このあたりはまだよくわからないでいる。

試験勉強や資格取得のための勉強だけはしっかりするけれど、それ以外は適当にこなしてやるというのでは、学生たちはどのようにしていつ成長するのだろう。先生はどこまで学生たちの目線に近づかなければならないのかもよくわからない。学生たちが単にオモシロいと感じる話ばかりするのは違うと思うし、おそらく僕の講義の進め方が拙いってことも大いにあるとは思うけれども、それでも最低限守られなければならないラインってあると思う。

限りなく本音が漏れだしているので、ここらあたりで切り上げてみるけれども、でもこうしていろいろと揺れ動きながらあれこれ考えている今の僕の状態を客観的にみてみれば、この状態から安易に逃れようと試みることはしてはいけないのだろうと思う。まだまだこうした葛藤を続けていく必要が、今の僕にはあると認識している。固着した考えにしがみついたり、今の状況を一刀両断するような認識を持ってしまうことの方が、実に怖い。まだまだ未熟な新人教員だから、もっともっと悩んで考えてみてやろうとは思っている。「くそー、今にみてやがれ」って誰に何を見てもらうのかもよくわからないままにそう思ったりしている。

明日、素面になったときにこのブログを読むのがちょっと怖いなと感じながらも、今日はこのまま更新しておこうと思う。ま、ぼちぼちいこうやないかと自分に言い聞かせながら、今日のところは爆睡しよう。

それではおやすみなさい。