平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

それが「成熟する」ってことなんちゃうのかな?

大学から帰宅途中の車中ではブルーハーツが流れていた。ブルーハーツはすっぽりとiPodに収まっているので正確に言えば意識的に流したことになる。

4月に入ってすぐくらいだろうか。ふと衝動的にブルーハーツが聴きたくなった。「確かiPodに入れていたはず」ということを思い出して、いや「iPodに入っていることを無意識的に覚えていたから聴きたくなった」という表現の方がしっくりくるだろう。きっかけも何もかもが存在しないところに何かが立ち上がることは滅多にない。ある時にブルーハーツTSUTAYAでレンタルして、PCに落とし込んでiPodに入れた。まるで近い未来に僕が聴きたくなるのをわかっていたかのように。

という空想的な想像はおいといて、近頃はとにかくブルーハーツが耳に心地よいのである。あのハスキーボイスがいいというよりは、汚い大人に馴染むまいとして社会にツバを吐きかけるようなあの歌詞に思わず心が捉えられる。10代の頃のガキだった僕の心を捉えて放さなかったブルーハーツが、もうすぐ34歳になるエエおっさんの心をも捉えるという事態をどのように解釈すればいいのかは、これまた厄介である。エエ歳こいてブルーハーツはないやろと、車中でどこか気分が高ぶっている自分を戒めたい気持ちはあるがどうにも止められないし、僕の心は10代のあの頃から何も変わっていなくて純真なのだ、と言えば聞こえはいいが、見映えはそれなりの歳になっても中味はまだガキのまんまだと言われると多少ヘコむ。

うーん、どっちだ。
ま、本心はどっちだっていいのだけれども。

「70年なら一瞬の夢さー♪やりたくねえことやってる暇はねえー♪」なんてフレーズは、社会に見事に順応した大人への反抗と社会に染まることへの抵抗を試みる血気盛んな若者の言い分として、あの頃は聴いていた。大人というものに抑え込まれようとする情熱を一気にたたみかけるような言葉として理解していたはずだった。そんなフレーズが、30歳も超えてそれなりに社会を知りつつあるエエおっさんの心をつかまえたのは、立ち向かって乗り越えるべき壁が朧気ながらも見えてきたからだろうと思う。

ソーシャルスキルなどという言葉だけでは渡っていけないのが社会というものである。生身の身体でしか乗り越え得ない壁というものがあって、むしろ本当の意味での「壁」は生身の身体を差し出す者の前にしか立ちはだからない。つまりそこでは思考を超えた単純なストーリーが必要とされる。壁を越えるには信念とか情熱といった青臭いものが必要だと僕は信じてやまないのだが、その青臭いものを惜しげもなく注ぎ込むには単純なストーリーがいる。耳障りのよい小賢しさではなく、嘲笑を伴うような白々しくもある大きなストーリーがいる。言わば人類学的な見地からみた壮大さがいる。

なんかね、そこらへんの琴線にブルーハーツの何気ない一言一言が触れるのである。僕がまさにやろうとしているというか、やりたいと念頭に描いているというか、やるべきであると心に誓っているあれこれって、そんなに間違ってないよなあって思えてきてニマッとなる。

いつまでもガキでいたいという願いは叶わないし、ガキんちょは周りをハラハラさせるから迷惑な存在ではある。がしかし、「ガキの心」というものは誰しもがいつまでも持っていたいと願うほどに愛おしいもので、それがなくなるとクソみたいな大人になりそうな気がして(いや、実際になるのだろうけれど)手放すのがためらわれる。大人になる必要はあるけれど「ガキの心」はいつまでもこの胸にあって欲しい。これは叶わぬ願いなのだろうか。

いやいや僕はそうは思わない。僕はこう考える。「ガキの心」をいつまでもこの胸に置いておくために、僕たちは大人になる必要があるのだと。「ガキの心」丸出しでガチャガチャできるのは、まさにガキの頃まで。「ガキの心」を大切に育みつつも一人前の社会人として生きることが、本当の意味で成熟した大人なのだろうと思う。いろいろなことをわかったフリして、子どもを子ども扱いするのが大人ではなく、それは嫉妬にも似た「まるでガキ」のとる態度でしかない。

とすると、ブルーハーツの歌詞に反応している僕自身はガキか大人か。
そんなこと自分自身でわかるわけがないが、ブルーハーツに心を掴まれる自分を冷静に見つめられているという事態から判断すれば少なからず「ガキな大人」の素地はあるわけで、まだまだガキんちょであることは認めながらも知ったかぶりの大人になっていないんだなということは、言えると思う。ただのガキんちょでもなく、大人という被り物を被ったどうしようもないガキでもなく、「ガキの心」を大切に育む「ガキな大人」に僕はなりたい。

ああ、ややこし。