平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「散歩の気持ちよさ」身体観測第71回目。

 現役時代の終盤には、よく散歩をするようになった。視界の歪みやズレといった自覚症状から脳震盪の後遺症と診断され、復帰までの目処が立たない中で安静を強いられていたときに少しでも身体を動かしたくて始めたのが散歩だった。

 当然のように、これまで行ってきた練習に比べれば運動の負荷は比べものにならないほどに低い。筋肉痛になることもないし、息が切れることだってない。だから、スポーツが生業の人間にとって体力維持に効果があるはずもない。そんなことは百も承知していながら日がな散歩に出かけたのは、たとえわずかでも身体を動かしているという実感が欲しかったからである。

 普段から鍛えている身体は、鍛えることをやめれば衰えるのが必然である。筋肉が削げ落ち、心肺機能は低下する。階段の上り下りや寝起き直後の倦怠感など、生活の至るところで体力の衰えは体感される。だから、身体の治癒を最優先に考える現状なのはわかりすぎるくらいにわかってはいても、そうした衰えを最小限に食い止めたい衝動にどうしても駆られる。ただ座して回復を待つ日々を過ごせるほどに成熟していなかった私が、無意識に求めた幾ばくかの手応えが散歩だったのである。

 今でもときどき散歩をする。普段なら自動車で過ぎ去るだけの道を、周りの景色に目をやりながら、また生活音に交じって聞こえてくる雀の鳴き声に耳を側立ててゆっくりと歩く。休日の公園で遊ぶ子どもたちを微笑ましく思い、古ぼけた喫茶店の中を覗き込んだりしながら。この前は、車通りを慌ただしく渡るご老人に声を掛けられて言葉を交わしたりもした。

 かつては、筋肉増強のために筋トレを行い、疲労を残さないためにと動かない自転車を漕いでいた。体力向上や健康増進などの明確な目的を携える運動からは決して得られないものが、散歩にはあると思う。

<09/04/21毎日新聞掲載分>