平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

<待つ>ということは。

一つ前の自分のブログを読み返して、何ともまあ深刻な印象を受ける。
そして、もしかするとこの書き方では誤解を生むやろなあと思ったので、ちょいと補足しておくことにする。

その人自身を取り巻いている環境に「くたびれ」ている人がいる。
正確には「くたびれ」ていそうな人がいる。
いつもの感じからすれば決して「くたびれ」そうにない人が「くたびれ」ていることに驚きとショックを隠せなかった僕は、じゃあその人を元気づけるために何ができるのだろうかと頭を抱えた上で、昨日は書き始めたのである。

したがって、その人と僕との関係が歪んでしまいそうとかそういうことではない。
その人と会話をする中で察知した「くたびれ」の徴候に、「これは見過ごしてはいけないぞ」とどうにかしてチカラになりたいと思うもこれは難しい問題やなと切なくなったのであった。

そうしたことを考え始めてシリアス調のブログになったのには、少しずつ読み進めている『「待つ」ということ』(鷲田清一角川選書)の影響をたっぷり受けている。

何かをせずに「待つ」ことは難しい。
教育には「待つ」ことが必要であるとされるが、子どもの成長を「待つ」という態度でいると、待たされ過ぎたときには焦りを生んでついつい教えすぎることに繋がる。スポーツで言えば、こちらが伝えようと試みた内容が子ども自身の血となり肉となるまで「待つ」ということになろう。
確かに待たなければならない。ホントにそう思う。決して焦ってはいけない。
でも、望むべき姿や現象をはっきりと自覚しての「待つ」は、構造的に焦りを作り出すとも思う。

望むべき姿や現象を明確に自覚して「待つ」ことは、イメージ通りにいかなかったときには自壊すると鷲田は言う。

宮本武蔵佐々木小次郎の決闘は待ち切れなかった佐々木小次郎が敗れた。
「待たせた」武蔵と「待つ」小次郎。
時間になっても姿を現さない武蔵を、小次郎は焦れながらひたすらに待った。
しかし、「待たせた」武蔵にしても、小次郎が待つことにしびれを切らして冷静さを失うことを「待って」いた。
つまり、武蔵も小次郎も、イメージを明確にして「待って」いたのである。

ではなぜ小次郎だけが「待ちきれず」、武蔵は「待つ」ことができたのか。
それは武蔵が眠っていたからである。
望む状態になるまで「待つ」ことの脆さをおそらくは知っていた武蔵は、「待つ」を意識の外に追いやるために眠りについたのである。
「そろそろ冷静さを失う頃だろう」などと主体的に考えている時点でそれは自壊の可能性を孕む。そんな明確なイメージを放棄するが如くに一眠りした武蔵は、ただ眠って、そして起きて巌流島に向かったのである。

どちらが冷静さを失って自壊したかは明白であろう。

この何を待つこともなくただ<待つ>ことが、ここ最近は頭に、いや身体にこびりついていたが故の一つ前のブログだったのだなと、時間が経過して読み返してみて初めて気付いたので補足したのである。