平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

いったい人は人に何ができるのだろうか。

いつもと何ら変わらない時間を過ごして「ではまた」と別れる。
また今日も楽しい時間を過ごせたことにホクホクしながら歩みを進める。
やがて家に着く。ご飯を食べる。お風呂に入る。
「ふぅー」と一息つきながらテレビの前でストレッチをしているときにようやく気づくことになったのは「くたびれ」である。

僕が「くたびれ」ているわけではない。
確かに疲れてはいるけれど、疲れることと「くたびれ」ることは違う。
疲れは、ご飯をたくさん食べて温かいお風呂に入ってしっかりと眠れば次第に回復してくるが、「くたびれ」はそうはいかない。
他者の考えに対する喪失感というか、あなたとはどこまでいっても平行線を辿るということを悟ってしまったときに感じるのが「くたびれ」であり、他者との共感を断念せざるを得ないときにどうしようもなく襲う徒労感のことである。

共に過ごす時間の中で交わした会話のあることばがささくれのように心に引っかかっていて、心身共にリラックスした拍子にそれが甦ってきたのであるが、そのささくれに「くたびれ」の徴候がみてとれたのである。

考えれば考えるほどにそれは「らしくない」ことばであり、どうやら「くたびれ」ているだろうことは想像するに難くない。
まさにそのことばが耳に入った会話の最中には「ん?」となるくらいで、そこまで深く気に留めることはなかった。それはこの「ん?」という微妙な違和感を感じとったのが身体だったからだろうと思う。論理的におかしなことばだったのではなく、そのことばには明らかに何かが籠められていた。
表面がざらついたことばへの違和感は時間を経過すればするほどにその存在感を増してきて、「ん?」が「えっ?」になり「うそやろ?」−「まさか?!」とその招待が露見してきたのだ。

モソモソとことばの後ろ側から這い出してきた「くたびれ」に、さてどうしたものかと考え始めてどうにもやるせなくなった。

誰を信じていいのかわからないような環境に身を置くのは相当にツライ。
環境を変えることでそうしたツラさからは脱却できると思うかもしれないが、僕はそうは思わない。そこから逃げ出しのだという自責の念と丁重に向き合わなければ、たとえ逃げ出したわけでもなく環境を変えただけであっても、その念はずっとまとわりついてくるからである。
何かを断念した自分に大義名分を与えてやらないとそれは身から離れていかない。

だからといってむやみやたらにその場で踏ん張るのもどうかと思う。
世の中には自らの理解を絶するような人たちがいる。どこかには必ずいる。
そういう人たちが多勢に無勢で押し寄せてくれば、その場から身を引くことで凌ぐしかないだろう。

踏ん張ってもだめ、逃げてもだめならどうすればいいのだろう。

それはおそらく踏ん張る姿勢を見守る人、逃げる決断に耳を傾ける人が必要なのだと思う。その場凌ぎの励ましやとにかく楽観的なことばを浴びせかけるのではなく、静かに耳を傾けて聴くことと、立ち直りや好結果の到来を期待するのでなくただただ<待つ>という構えでいること。
「何でも相談に乗るから」ではなく「私にできることならします」という名乗り。
評論や批判ではなく、ただ相手のことばをなぞるということ。
ともすれば己の無力感に苛まれるかもしれないという覚悟を伴ってのこうした構えこそが、悩める相手の傍らに立つ者としてのとるべき姿勢であるように思う。

夢や希望なんていうことばは軽々しく使ってはいけないとは思うが、夢や希望がなければ人は生きていけない。自らの手で生きることを辞めてしまう、つまり自殺する動物が人間だけなのも夢や希望がいかに尊ぶべきものであるかを物語っている。
ここまで大げさに考えなくたって、たとえわずかでも望みがあれば人の心は前に向いていける。

誰かの側にいて、その誰かのチカラになりたいと願うとき。
その願う気持ちが大きければ大きなほど何かをしてあげたいという衝動に駆られていてもたってもいられなくなるけれど、考えれば考えるほどその衝動に抗うような仕方で自分を鎮めるしかないことに茫然とする。
具体的には何一つできない自分がなんと恨めしいことであろうか。
それでも「私はあなたのチカラになれる」という思い上がりに比べればまだいい。

そして今日も飯を食い、風呂に入ってぐっすり眠る。本を読んで論文を書く。
まるで何ごともなかったかのように、過ごす。