平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「感覚」がもたらす落とし穴。

ことばというのは相変わらずすごいと思う。

僕の書いた新聞記事を読んだ同士からの感想メールによって、
ここんところ僕自身の中で渦巻いていたモヤモヤ感が晴れた。
その正体をつかめないほどにモヤモヤしているあの感じは、
数字のゼロが1になるようにして一気に晴れるとということはないのだけれど
少なくとも定まるべきところが定まったような気がしている。


 「書く」ことがだんだんつまらなく感じてきていて、
というよりも以前ほどの楽しさを感じられなくなってきている自分がいて、
なんだかとても「書く」ことにしんどさを感じていた。
どんなテーマで何を書けばいいのかとか、
自分の想いや考えをどのようにパッケージングすればいいのかとか、
どうもそんなことばかりに神経を尖らせていたような気がする。
でも、「書く」ってことはそういうことではなく、
とにかく感じたことをたどりながらその一つ一つをことばにしていくことであって、
あらかじめ用意していた万人に受けそうなオチに向かってことばを組み合わせていくことではない。
誰に批判されてもいいようにわかりやすい論拠を並び立てて「なければならない」的な言い回しでガードを固めるのではなくてたとえたくさんの人に批判されようとも世界のどこかにいる一人の人間に共感してもらえるようなことばを紡ぐことが僕のイメージするところの「書く」ということである。

こういうことはたびたびこのブログでも書いてきたし、
また内田先生をはじめとするたくさんの方々から学んだことでもあったが、
いつのまにかどこかにすっ飛んでいた。
いや、忘却の彼方に置いてきたというよりも、
それだけ実践し続けることが難しいことなのだと言うことだろう。
自分では自覚していたはずでもいつのまにか違った方向に向かっていた。
これは「感覚」というもののあいまいさがもたらす陥穽の一つだろうと思う。


僕の敬愛する甲野善紀先生は「感覚は人を騙す」と言う。
感覚だけに頼りすぎることの危険性を語った、
まことに身体的な指摘であると僕には感じられる。

ラグビーの経験。
相手との間合いを見切ってステップを踏み、
相手を抜き去ったときに感じた「あの感じ」は確実に身体に刻まれる。
だから同じようなシチュエーションでは勝手に身体が動いてステップを踏むことができる。
なぜそのように動いたのかと言う理由がわからない動きの実践は、
「感覚」のなせる技である。
しかし、このときの「感覚」に縛られて身動きが取れなくなることもある。

僕の経験を語れば、高校生レベルでは何とかなっていた「あの」ステップも、
大学生になってすぐにはとても通用するものではなかった。
なぜだかわからないけれど抜けないし、走れない。
悔しいからあれこれと試行錯誤した。
すると、先輩の真似をしたりするうちに
いつのまにかうまく相手を交わすことができるようになった。

このときに強烈に実感したのは「元の自分に戻った」という感覚であった。
また高校のときのように鮮やかに抜けるようになったぞと当時は強く感じたのである。

しかしこの実感が正確な表現ではないことはもはや明らかである。
僕は高校のときの自分に戻ったのではなく、
ステップがより鋭く踏めるようになったために相手を交わすことができるようになった。
つまりはうまくなった。そういうことなのである。

まさに「感覚」がもたらす落とし穴はここにある。

実感としての「感覚」は、成長したはずの自分自身を元の自分に戻った」と感じてしまう。
この感覚が意味するところは、
「当たり前にできていたことがまたできるようになっただけだ」との思い込みである。
実際には飛躍的に成長しているのにそのように感じることが何をもたらすか。

慢心である。

 自分自身を過剰に評価してしまえばまわりの声を聴き入れることができなくなり、
上達する機会がどんどんと減っていく。
やがては成長プロセスに参入することを拒むようになり他者に対して攻撃的にもなる。
「感覚が人を騙す」ということばの意味はこういうことではないかと思う。

 しかし、だからといって「感覚」を蔑ろにするわけにはいかない。
一にも二にも「感覚」が大切だと感じているからこそ、
身体の研究に取り組んでいる僕がいるわけであるし、
社会の大気圧に負けることなく「感覚」を大切にしている人には強烈に惹かれたりもする。

 「感覚」は大切である。いや「感覚」がすべてだ。僕はそう思う。

ここで一つ考えてみたいことがある。
それは「感覚は人を騙す」と語るのはあの甲野先生だということである。
あれだけ雄弁な甲野先生自身が郡を抜いて感覚的であることに注目してみると、
「感覚」というものの輪郭がもう少しだけはっきりとしてくる。

「ことば」と「感覚」は相容れないものであることには間違いがない。
だからこそ甲野先生は直接的な表現を避けて“たとえ話”を多用される。
「いわしの群れが方向転換をするように」とか、
「技をかける瞬間は心の時限爆弾を爆発させる」とか、
「すれすれまでお湯を張った洗面器を持って歩くときのように」とか、
挙げていけばきりがないほどのたとえ話がある。

こうしたたとえの影響を受けた僕は、
お湯を張った洗面器を意識してグランドを走ったこともあるし、
心に時限爆弾を仕掛けたこともあるけれど、
そうして試行錯誤すればするほどどんどん曖昧になっていくのが「感覚」である。
そしてやがてはなんとなくできるようになっていたという<感覚>が生じる。


こうしたたとえはすべて甲野先生が感じておられる「感覚」をことばに置き換えたものである。
だから甲野先生のたとえそのままを感じることで自分の「感覚」が形作られることはないのである。
そうしたたとえを頼りにして自らに手繰り寄せるあいだに
いつのまにか<感覚>というものが芽吹くのだ。

 つまり!

「感覚」は、それとはとても相容れることのない「ことば」を介すことで騙されなくなる。
こういうことではないかと思う。

自分の中にある「感覚」に頼りすぎれば知らず知らずのうちにあらぬ方向に歩み始めてしまう。
そうならないためには「ことば」がいる。
自分ではない誰かからの「ことば」がいる。
そうした「ことば」があって初めて自分が今感じている「感覚」に信頼を置くことができる。

ということを同士からのメールを読んで強く実感するに至ったのであった。
的確な「ことば」をいただいた同士には感謝の気持ちで一杯でございます。
これでまた自分の<感覚>を頼ることができる。

ありがとう。