平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「謝罪」だらけのこの頃です。

テレビを付けても新聞を開いても謝っている人たちがいる。
その謝っている人たちを見ていると、「謝る」体を成しているとしか思えない。
つまり、ただ「謝る」という行為に従事しているようにしか見えない。

朝青龍にしても亀田にしても、僕が彼らから直接的に被った被害はどこにもなく、むしろ私たちの交わす会話に一つのネタを提供してくれたという意味では、生活そのものが色鮮やかになったと言えるかもしれない。
なにしろ親(親方)の立場にいる人間のお粗末さがあれほどまで赤裸々に報道されたことで、師弟関係や親子関係について深く考える機会を私たちは得ることができたのだから。

とは言うものの、あまりに礼節を欠いた言動からは少しの精神的なダメージを受けたのであるからして、あくまでも生活色に加わったのはダークグレーでしかない。
しかしながらこのダークグレーは、赤や黄色や緑といった鮮やかな色をより際立たせてくれる。したがって彼らの傍若無人さは、少なくとも直接的な被害を被っていない人の精神構造においては精神の堆肥となる。

さらには赤福餅を食べて食中毒になってもいないし、毎年正月になるとうん十万円もする吉兆のおせち料理を食べていたわけでもないから、彼らから執拗に謝りまくられてもどこか気持ちが悪い。別に僕は何にも迷惑してませんよ、とでも言い返したくなる気持ちをどうしても拭えない。
それよりも何よりも、メディアに乗せられて思わず彼らのことを断罪してしまいそうになる自らの浅はかさに気付いて、心にどんよりと暗い陰が落ちる。
こっちの気持ち悪さの方が実に身体には悪い。

アカンことはアカン。確かにそう感じるし、日本社会のこれからを想像すれば言うべきことは声を大にして言わないと行けないとも思う。それでもどこか僕の居場所から離れた世界で起こっているような気がして、こうした社会問題への言及というか批判には、せっせと砂上に楼閣を築くようなむず痒さを感じてしまう。

食品偽装問題や品格に欠ける格闘家への批判は、批判することによって彼らの存在を際立たせてしまうことがわかっていながらも批判する必要がある、というジレンマから逃れられない。
「一切触れない」という手段、つまり無視することがもっとも効果的な批判になり得る。それでもこの手段に訴えることが困難であるのは、「出し抜く」人や媒体がいるからである。世間から相手にされなくなればそれ相応の出方が生まれるわけで、たとえば食品偽装が発覚した段階で、メディアが追従的に報道を重ねることなく国民もそこの商品を買わないようにすれば、その企業は生き残りを懸けて今後の身の振り方を真剣に考え始めるに違いない。

だが、こうした論理が水泡に帰すのは、自分と他者との差異に狙いを定める人や媒体が後を絶たないからである。

アカンことはアカン。他人がしていてもアカンもんはアカンねん。
子どもの頃は、友だちみんなが持っているからという理由で新発売のファミコンのカセットが欲しいと親にせがむと「よそはよそ、うちはうち!」とあしらわれたりもしたけれど、この「よそはよそ、うちはうち」という線引きが社会において限りなく曖昧になっている気がする。

朝青龍の謝罪会見から感じたのは、朝青龍自身のふてぶてしさと報道陣が投げかける質問の頑なさである。
朝青龍のふてぶてしさは今に始まったことではない。
あのふてぶてしさは、あそこまで野放しにしておいた親方や横綱審議委員会日本相撲協会とが一致団結して築き上げた一つの態度であるように思う。
何とかして横綱の口から彼自身を不利に導くことばを引き出そうと躍起になっている報道陣は、彼を断罪するような質問を頑なに投げかけ続ける。
そうした報道陣の存在もまた、彼が醸し出すふてぶてしさを助長するように作用している。

揚げ足を取ろうとする側と、取られまいと態度を固める側。
両者の間で完結している世界にはどうしたって踏み入れることができず、まあ踏み入れたくもないのだけれど、眠たくなったり腹が減ったりしながら晩飯は何を食おうかと頭を悩ませて考えたりする日常に立つ僕は、その世界とのあいだにはっきりと線を引いているようなのである。
だから、度々謝られてもただこそばゆいだけでしかない。

それでも「おせっかい」として言わせてもらえれば、利害関係にない人でも背筋が伸びるような謝り方っていうのが世の中にはあると思う。
がしかし、今のところそうした謝罪は線を引いたこちら側でしかお目にかかれないとは思うが。