平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

ガキんちょたちの姿から。

昨日はサッカー教室を見学するために幼稚園に足を運び、今日は尼崎補助競技場まで保育園ラグビー大会を見に行った。

サッカー教室が始まるまでの小1時間ほど「おっさん」呼ばわれしながら子どもたちと一緒にドッジボールをして遊んだ。一人の子を抱え上げて逆さ釣りにして地面に寝かすとその子は「もいっかいして」とねだり、それを見ていた周りの子どもたちは「僕も」「私も」と寄り添ってくる。たまらなくかわいい。

あまりに「おっさん」呼ばわりされ続けているとだんだんムカムカしてくるけれど、「おっさん」「おっさん」とうれしそうに叫びつづける子どものきらきらした表情でそうした肝っ玉の小ささもかき消されていく。

よろめきながらも所狭しと走り回る子どもたちは明らかに不安定を使いこなしているように見える。ごつごつした走りではなくよろよろとした走りは、いつこけてもおかしくないように見えるけれど、その微妙な感じを保ちながら走ることができるのは倒れまいとする力(すなわち重力)を最大限に使おうとしているが故のことであろう。身体を動かすために筋肉に頼るのではなく、身体の外部に存在する力の恩恵を受けようとするその姿勢は、見ていて危なっかしいけれど伸びやかですがすがしい印象を受ける。

子どもたちの輪に入って一緒に遊んでいるときに一人を背負い、一人を右手にもう一人を左手で持ち上げてそのまま歩ける自分に自分自身で驚いて、もしかすると引退してからの1年間で不必要な筋肉が削げ落ちてすっかり身体が変わったんじゃないかと内心ほくそえむことができたのは、そんな子どもたちの影響を受けてのことなのかもしれない。

身体は戯れることで練磨される。そう思わざるを得ない風景を目の当たりにして、専門的なトレーニングの限界を見たような気もするし、少しの勘違いのような気もするけれど、とにかく心地がよかったことだけは伝えておきたい。今日の保育園ラグビーでは、まだまだ成長途上にある子どもたちの中でもきらりと光るプレーを見せる子どももいて、相手を交わすときにスピードをコントロールしたり、身体の芯でタックル(というか体当たり)をしたりする子どもたちのプレーには関心しきりであった。もちろんのことながら彼らはトレーニングなどしていないのだ。

ふと周りを見渡すと、お迎えに来ているお母さんやカメラを回しながら声を張り上げて鼓舞するお父さんたちが目に入り、ああそうか、僕はちょうど親御さんくらいの年齢になるんやなあと複雑な心境にも陥りながら、今日もまたこうして事務所でパソコンを叩いているのであった。