平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「信頼があるからこそ」身体観測第30回目

子どもの頃の遊びにはルールがあってないようなものだった。たとえば野球をしようとなり、集まった友だちの人数が奇数で割り切れない場合は、一人多い方のチームから必ずキャッチャーを出すことにしたり、人数が少な過ぎるときは「透明ランナー」を採用したり、まだ充分に身体が発達してなくてなかなか打つことのできない低学年の友だちを「三振なし」にしたりと、自分たちにとって都合よくルールをカスタマイズしていた。ルールを守ることは二の次にして、その場に居合わせた友だち同士でいかにして楽しめるかに、子どもたちは智恵を絞っていたのである。

翻って、私たちが身近で耳にするほとんどのスポーツには国際的なルールが確立されている。たとえば、バスケットボールを携えてフラリと訪れた公園で、たまたま居合わせたのが国籍の異なる人たちであったとしても、そこで一緒にバスケットボールに興じることができるのは想像してみればわかることだろう。たとえ言葉が通じなくても、お互いのプレーを身体で感じながら、「お前やるなあ」「お前の方こそ」と心を通わすことができるのは、俄に信じ難いことかもしれないが起こり得る事実である。言語が異なっていても共に楽しむことができ、また国同士で試合を行うことができるのも、万国共通のルールがあるからである。

スポーツは、互いに決められたルールを守るという信頼があるからこそ楽しむことができる。遊びも同じで、互いにズルをしないという信頼があるからこそルール変更を厭わずに楽しむことができる。こう考えれば、勝つためにすべてを出し抜いてやろうという姑息な人間がいれば、信頼は脆くも崩れ去り、スポーツも遊びも、共にその本質が崩壊してしまうのは火を見るよりも明らかである。この信頼を回復することこそが、今日におけるスポーツの退廃や遊びの貧困の進捗に歯止めをかける唯一の手段であるように思うのである。

<07/08/07毎日新聞掲載>