なーんにもしない、ということ。
なんだか抜けた。
ふと気がつけば、これまでに感じていた何とも言いようのない重苦しさがなくなっていた。
どうもこの3週間ほどは気持ちが前に向かなくて、それでもすべきことが目の前に山積していたから何とかやらねばと、いつのときも奮い立たせていたなと、振り返ってみて感じる。おそらく、この得体の知れない重苦しさは、振り返ってみて初めて感じるものなのだろう。
重苦しく感じているまさにその時には自覚できない重苦しさ。
でも抜けた。まるで憑きものが落ちたように。
今日も丸一日予定がない日を過ごした。
朝から洗濯して、昼間は急なアポイントでちょいと外出したものの、部屋に帰り着くなり昼寝をして、夕方から晩御飯の買い出しに行く。
久しぶりの自炊に心もカラダも喜んでいたようだ。
なーんにもしない時間。
呼吸と思考と食事と読書と音楽と掃除だけに浸ることから得られる多幸感は、ことばでは言い表せないほどにイイ。ホントにイイ。
なんか暗いと思われる方もいるかも知れないけれど、イイと感じるんだから仕方がない。
そんな時間を過ごしながらふと気がつけばこんなことを考えていた。
これといった目的が付与されることで意欲が湧くこともあるけれど、目的がないにもかかわらず、だからこそこれといった動機もないままに何かに没頭できることが、実は一番幸せを感じる瞬間ではないのかなって。
目前の試合に勝つために精一杯に努力し、食事を節制し、自らを極限まで追い込んで研ぎ澄ますことの楽しさは、もちろんある。トンカツの衣をはずしたりお酒を控えたり、一つ一つの行いに手応えがある分だけ目的に向かっているであろう実感が湧き、目的達成への期待感は限りなく膨らむ。パフォーマンスを最大限に発揮して試合に勝つことができれば、そうした努力は報われるわけであるし、勝利の美酒に酔いしれることができる。ペナントレースを制したチームがビールかけを楽しんでいる様子からも、それは窺い知れることであろう。
僕もビールかけは生涯に一度はしてみたいと思う。
みんなでワイワイとやれば楽しそうだからである。
でももう節制するのはいやだ。一つ一つの日常的な行動に対して過剰なまでに気を使うのはもうこりごりである。僕の身体がそう訴えている。
食べたいときに食べたいものを食べて、飲みたいときに飲みたいものを飲む。
こうして書けば、なんてわがままで、なんて不摂生で、なんて怠惰だろうと思う人もいるかもしれないけれど、なんてことはない。これが生きることに他ならない。
ふと気がつけばおいしい白ご飯を口に運んでいた。
ふと気がつけばスーパードライで喉を潤していた。
ふと気がつけば『知力の発達』を夢中になって読んでいた。
ふと気がつけば……眠っていた。
なーんにもしなかった一日であっても、実際にはなーんにもしてないわけがない。それでも、なーんにもしていないと感じるのは、日々の行いに手応えを求めるからである。目的を求めるからである。
別にええやん、目的なんかなくってもさー。
手応えなんていらねーや。
だから明日もなーんにもしない。