平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

神戸フルコースの夜。

【別館牡丹園】から始まった夜は気持ちの浮き沈みというものがない。
「メチャメチャ楽しい」と形振り構わずハイテンションになることもないし、どんよりと暗闇に溶け込んでゆくこともない。自分という存在が崩れていくのではないかという恐れや心配を感じることなく、これでもかと揺さぶられるあの感じは、ほとんどいつも【別館牡丹園】から始まる日に味わっている。

自分が揺さぶられるのは、同席した人たちとのことばのやりとりによるものだけれど、決して忘れてはならないのは、味だけではなくおいしい料理に舌鼓を打ち、王さんの熱き想いに感応することで一日が始まったという紛れもない事実である。
料理がおいしいのは間違いない。でもそれだけではない。
あらゆるものの一つ一つに信念が込められており、それは出来合いのストーリーに乗せられたヤワな信念などではなく、いつのときも貫かれる研ぎ澄まされた信念であって、それは「続けてゆく」ことの尊さを僕らに感じさせてくれる。

料理が運ばれてくる合間に王さんの心のこもった話を聞く。
ミル貝やスペアリブやネギ蕎麦で腹を満たし、王さんの話で心を満たす。
そうしてはじまる夜が心地よくないわけがないだろう。

と、昨日はいろいろな偶然が重なったこともあって場所を新地から元町に移し、東京から帰省中のタケローと鉄火場姉さんこと青山さんとの暗中模索の会(@青山さん)が催されたのであった。

僕が「談論風発」ということばに抱いているイメージにそっくりそのまま当てはまるのが、青山さんと共にお酒を煽りながら過ごす時間だったりする。
いつも、「それは違う」と相手の話を遮り合って話すのではなく、相手の話を絶えず自分の中に放り込んでそこからまた言葉を紡ぎ直すことの応酬となる。
自分とはあまりにかけ離れたところを目指している人とは、まずお互いに同意を得ることに尽力せねばならず、しばらくのあいだお互いが向かい合いながらの緊迫感に蹂躙されてしまう。誤解されやすいことば一つ一つに注釈を交えながら、ていねいにていねいに話すことが必要となるのである。

青山さんとのあいだではもうそんなことはしなくてもいい。
だからといって何でも気軽に話せるわけでもないのは言わずもがなで、「気軽に」ではなく「気楽に」のニュアンスに近く、それよりも「本気で」に近い。
等身大の想いを、たとえことば足らずであってもたどたどしくても話すことができる。だから僕は会話の端々に「何て言ったらいいのかなあ」という躊躇が入りまくるのであり、そのちょっとした間の中で思考がフル回転する感覚をとても心地よく感じる。

中学からの悪友であるタケローの塾の先生であり、音楽の師匠でもあるマルタニカズさんを街の兄貴と慕うのが青山さんというご縁があって、先月はじめて一緒にご飯を食べてお酒を飲んだのであるが、そのときの場が既に昨日の「談論風発」を予測させるような雰囲気を漂わせていた。そして、昨日。案の定である。

決して耳障りのよい話ばかりをしているのではなく、予想もしていない角度から投げかけられる耳の痛い話だってする。その場限りで結論が出る話などは皆無であり、3人がそれぞれ場の余韻を引きずったまま帰路に就き、翌日目が覚めてからジワジワと身体に浸透し始めるような話がほとんどである。
これまでの自分を侵食し始めるという意味においては少なからずの不快や不安を伴うけれど、それは時間を飲み込むことによってこれ以上のものはないと感じられるほどの快が得られることは既に知っている。

だから「よっしゃ、やったるでー」という意欲が湧いてくる。

【別館牡丹園】で始まり【ムーンライト】で落ち着いて【サードロウ】で締める。
振り返ってみて、なんて贅沢な夜だったのであろうかと実感。
元町三ノ宮方面に思わず合掌。

青山さん、いつもいつも本当にありがとう。
タケロー、またくっちゃべりましょーや。