平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

これからの期待と寂しさの狭間で。

昨日の酒場で流れていたMisiaを聴きながら書き始めてみた。
社会人一年目、三菱自動車京都にいた頃によく聴いたよなあと、昨夜に続いてあの時の場面がフラッシュバックする。そういえば、初めてのパソコンであるカメラ付きのVAIOを特に何をするわけでもなく購入して、「早打ちソフト@北斗の拳バージョン」で遊んでいたっけ。出かけるときにはカバンの中に放り込んで「いつもパソコンを持ち歩いている人」に酔いしれてもいた。ああ、懐かしい。

メールとネットだけの、なんとなく時代の波に乗っている感じを味わうだけだったVAIOから、現在のMacに移行したのが6年前。そのMacCANVAS.を創って今に至っている。気付かないあいだに時間は流れていて、そして過去のいろいろな出来事が現在を創り上げていることにハッと気付かされる。こうしてネット上に書き続けた結果が今の自分に少なからず影響を及ぼしているからには、やはりこれからものたうち回りながら書き続けようという気になる。何と言っても、ブラインドタッチができるようになったのは、最終ボスに君臨したラオウのおかげだったことに驚くのであった。人生には無駄なことなんてないのだ(笑)。

さて話は変わる。

昨夜はちょっぴり寂しくなる事実を聞かされてどぎまぎしたが、寂しくなると同時に気の引き締まる思いがしたのは決して気のせいではない。

いなくなってしまうことで、自分がその人をどのように感じていたのかを知ることはよくあるが、というより離ればなれにならないとみえてこない部分というのもまたあり、だからこそ亡くなってからその名を世に轟かす人もいるわけで、そういう意味で改めて存在の大きさを認識することになった。寂しくなるなあという感情がどうにもやりきれないほどに大きく増長していくことを抑えることができず、ついついお酒の力を借りたのではあるが、と同時にあらゆる角度からこれからの可能性についてできるだけ冷静になって考えてみたところ、それはそれはオモシロいことになるだろうという予感がする。これは、組織の内部だけで循環するのではなく、共同体の外側にいる人間と効果的に、というよりも好意的な関係、すなわちつながりがより具体的なかたちで存在することに根拠がある。まさにスモールワールドなんじゃないかと思うのだ。

共同体の内部においてお互いに密な関係を築くのは、それほど難しくはない。しかし、共同体の外側にいる人間とつながることはそれほど容易ではない。経済活動にどっぷり浸かった状態で、利害関係を抜きにした関係を構築するのはほとんど不可能に近い。仕事と趣味を、端的に切り離して考えるのであれば特に問題はないけれども、仕事も趣味も人間的な営みの一つであり、オンとオフを明確に区別することなく一人の人間の生き方を総体的に考えるとすれば、やはりそう思わざるを得ない。モラルに反する行為を仕事だから仕方がないと言い切るか、良心の呵責に耐えきれずに生き方を変える勇気を持つか、その判断を巡って右往左往しているうちに、今自分が立っている場所から離れて外部に一歩を踏み出すことになる。

共同体の内部で結束力を高めることも大事だ。
でも、それと同じくらい外部とコミットすることも大事だ。

(いや、そもそも内部と外部とに分けて思考することが限界なのかもしれないが、このスキーム以外で考えることが今の僕にはできない。それでもなんとなくそんな気がすることを無視できないのであった)

つまりこういうことだ。

立場を変えたこれからの関係からは、これまで仲間として後輩として接する中で感じられたものとは異質のオモシロさが得られる、という期待はとてつもなく大きい。

だーがしかし、共に顔を合わす機会が減るのはちょっとやっぱり寂しすぎる。

こうした感情の狭間で揺れ動く僕なのであった。