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『私家版・ユダヤ文化論』が小林秀雄賞に!

 
私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)

私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)

  • 作者: 内田 樹
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2006/07
  • メディア: 新書



先日、内田樹先生の『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書)が小林秀雄賞を受賞された。青山同志のブログを読んで感涙にむせび、すぐさまお祝いの気持ちをツラツラと書くつもりでいたのが、一昨日の突然すぎた報告に心を奪われて、すっかり頭の中からすっ飛んでいた。内田門下生として誠に恥ずかしいことこの上ない。

この『私家版・ユダヤ文化論』への感動っぷりについては、昨年のコラムにちょこっとだけ書いている(→http://www001.upp.so-net.ne.jp/canvas/column/2006column/06_09/09_07.html)。 改めて読み返してみると、どこがどのようにオモシロいのかを説明することができず、とにかく興奮しているだけの様子が手にとるように分かる。 「なぜオモシロいのかがわからない」というオモシロさほど、身銭を切り、ほとんど自分のすべてを投げ打ってでものめり込めるものはない。 自分自身が享受しているオモシロさの理由をことばで十全に説明できる、という自覚は、ちょっとした背伸びか、もしくは今現在の自分自身でも解釈できる程度のオモシロさに過ぎないからで、本当にオモシロいものには明確な理由などない。 トライすることから楽しみを得る選手にとっては、タックルはオモシロくないプレーになるかもしれないし、試合に勝つことだけから楽しみを得る選手は、負けた試合からは何も得られないことになる。それぞれのプレーに好き嫌いはあっても、結局のところラグビーが好きでなければグラウンドに足を運ぶことはないわけで、共にプレーする仲間(敵を含む)とボールを追っかけっこすることが好きでなければ、プレーの好き嫌いさえ言えないのである。 なぜラグビーが好きなのかと訊かれても答えようがないのはこういうことである。 「わからない」、だけど「オモシロい」のではなく、 「わからない」、だから「オモシロい」のである。 なぜオモシロいのだろうと、そのオモシロさの理由を追及することがオモシロいと言えるだろう。 中学高校時代、中間・期末試験前になると、試験後まもなく一瞬にして頭の中から消え去る記憶法を熱心に遂行して勉強していたので、とても浅はかな歴史認識しかないのは言わずもがな。それでもなおこの『私家版・ユダヤ文化論』を読んで興奮を憶えたのはなぜかというと、あまりに「わからなかった」からであり、そしてその「わからなさ」の中にわずかながら差し込む光に、身も心も奮わされるほど腑に落ちたからである。 「そこに存在しないもの」を感知し、恐怖し、欲望し、憎悪することが人間にはできる。何かが「存在するとは別の仕方で」、生きている人にリアルに触れ、その生き方や考え方を変えるということがありうる。 (内田樹『私家版・ユダヤ文化論』文春新書 p.168) まさに僕は、この本が言わんとしている内容から「そこに存在しないもの」を感知し、それを欲望したのではないか。そう考えないと、「シンドラーのリスト」や「炎のランナー」といって映画から知ることのできるユダヤ認識しかない僕が、あれほどまでに「オモシロい」と感じるのは説明がつかない。 小林秀雄賞がいったいどういう賞なのかが全く見当が付かないので、今度青山さんや江さんに訊いてみよう。 とにもかくにも、内田先生、おめでとうございます。