平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

関学ラガーに教えて教わる。

今日は朝9時から灘浜人工芝グラウンドへ向かう。
大学時代の同級生であり、現在は関西学院大学FWコーチを務めるハギじいから、「練習きーひん?」と声をかけてもらい、「はいよ」と二つ返事で引き受けたのである。

昨夜は急遽、沖縄上陸作戦(青木駅前『藹々亭』での飲み食い)が敢行されたために、目が覚めてからわずかに残るお酒を感じつつ、眠たい目をこすりながらグラウンドに向かうと、そこは既に猛烈な暑さが充満していた。
朝の9時なのに本当に暑い。
ただ立っているだけで汗が滴り落ちてくるし、アップシューズの中には火傷するんとちゃうかっていうくらいの熱がこもってくるしで、目の前でこれでもかといわんばかりに走り回っている学生たちがなんだかまぶしく見えた。
って、日差しがきつかっただけかもしれないけれども。
とにかく学生たちは本当に元気だ。

関学ラグビー部の練習に、昨年はちょくちょく足を運んでいたので、選手それぞれのプレースタイルやチームの戦術に照らし合わせてアドバイスできたが、今年は練習をみるのが初めてということもあり、言葉の選択にはやはり慎重になる。練習風景を眺めていると言いたい事は後から後から湧いてくるが、それをすべて選手にぶつけたところでおそらくは彼らの心に届きはしないだろう。
なんとなく顔は知っていたとしてもあまりよくは知らない人からあーでもないこーでもないと言われれば、僕ならば「これまでなーんも見ていないのになにを言うとんねん!」と思う。
たとえ意識しなくとも無意識にそう感じるだろうことは、確信めいた実感としてある。

もし自分が選手の立場のときにアドバイスされても心に響かないだろうと強く思うのに、その実感を無視してあれもこれもアドバイスすることはしてはならない。「できない」のではなく「してはならない」としたのは、そう強く思っていなければぺらぺらと口が勝手に動き出してしまうからである。
おそらく昔からそうだったとは思うが、どうやら僕は教え好きで、ついあれもこれも言いたくなってしまう。目の前でモタモタしている選手を見ていると、「もっとこうしたらええのに」というお節介的な教え心に火がついて、ついことばが口をついてしゃべり出してしまうのである。

教えすぎることは、まったく何も教えないことよりもその弊害が大きいことを僕は承知している。本人が今まさに克服しようとしている、もしくは習得しようとしているプレーそのものを批評し、基本(だと世間的に認知されている)プレーへの矯正を行うことは、百害あって一利なしである。

スポーツには確かに基本プレーは存在する。武道、茶道、華道などの日本文化には「型」というものがあるが、その概念とほぼ同じものをスポーツでは「基本」と呼ぶ。
だが、現在のスポーツ界の実情はおそらくそうなってはいない。「基本」となる範囲を逸脱したプレーをも基本プレーの中に組み込んで、それをごり押ししているように思われるのである。

それこそ「型」は、何百年もの時を経てそのかたちを細やかに変化させながら今日まで継承されてきたものであり、洗練され尽くした身体運用の様である。
この観点から言えば、明治以降に日本に流入し、その意味をも深く吟味することなく今日行われているスポーツに「型」を求めるのは酷であろう。
明治期から戦前、戦後と時代が下るにつれてその扱い方を問われ続けたスポーツを、現在も日本人はうまく理解することができないでいるのだから、「型」に似せるようにして次々と「基本」を定義してゆくのも仕方がないことかもしれないが、その弊害についてはきちんと自覚しておく必要があるだろう。

緩和することを最優先させればどんどん衰え、緊張を与えつづければ病になるのが身体であるとすれば、適切な「型」を知ることは身体を練磨するには必要不可欠である。スポーツも身体文化のひとつと考えるならば、この「型」から学ぶべきものは多いはずである。
だが、スポーツの「型」とも言える「基本」は多種多様で、日本文化である武道的な見地とは正反対のものも散見される。というよりも、武道とは正反対の考えに基づくものの方が多く、基本的には科学的根拠を元にして構築されつつある。

こうした現状であるからして、たとえ少々であっても強引に「基本」を教えるのはいかがなものかと、こう考えるわけなのである。

この、『スポーツにとっての「型」である「基本」』という問題は、これからもっと深く掘り下げていかなければならないテーマだと自覚している。
なので、現在の段階ではあまり多くを語らずに、プレーひとつひとつの考え方、もっと言えば、プレーひとつひとつを紐解いて根源的に考える仕方を提示してゆければいいと思っている。

にもかかわらず、全体練習が終わったあとに4年生のBKを集めて話し始めると、ついつい言い過ぎてしまった。ああ、ちょいと自己嫌悪・・・。

わがコーチ道は、どうやら茨の道のようである。