平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

痛いもんは痛いんですよね。

「なんだか書きたくねー」という気持ちに逆らうことなく、その日の気分そのままにのんべんだらりとこのブログを放置していたら、あっという間に今月も給料日を向かえることになっていた。ここしばらくも忙しかったのは忙しかったのだが、これだけ長いあいだ書かなかったのは時間の欠乏が原因ではなく、おそらくは心身の衰弱である。「衰弱」っていうのは大げさな言い方に過ぎないにしても、身体がなんだか重たく、猛暑の続いた夏にたまった疲れが一気呵成におしよせたのではないかと、身に感ずる虚脱感にすっかり参っていたのである。そして、何よりもつらいのが、先週の半ばから痛み出した腰である。2ヶ月ほど前に突然襲った腰痛を彷彿させるかのような痛みに、今もひいひい言わされている。本来ならば今日は甲野善紀先生とご一緒させていただく予定で、おそらく今ごろは先生のお近くで身体がビンビンに反応するという至福の時間を過ごしていたであろうはずであったが、朝目が覚めてしばらく布団にくるまってもそもそと動き出そうとするも、痛みが生じるためにどうしても腰が立たず、泣く泣くお断りを申し入れたのであった。それほどに今朝は調子が悪かったのである。あー、くやじい…。

この三連休はというと、初日は友人であるラクダの結婚式に出席して、その後はSCIXラグビークラブで指導を行い、次の日とその次の日は千葉県ラグビースクール選抜の指導に従事した。夜は夜で楽しげな宴が催されたこともあり、週末になって半ば治りつつあった腰に、この三連休でジワジワとかかった負担が積もり積もって今日の痛みに繋がったのだと思う。ラグビー指導では、実際にプレーをしてお手本をみせることができなかったとは言っても、今日ほどの痛みはなく、指導風景を見ていた人たちは、僕がかなりの腰痛を抱えていることにおそらく気付いてはいないはずで、たとえ身体に痛みを感じていてもやりようによっては身体も動くものだなと胸を撫で下ろしていた矢先だったので、やはり「無理をする」のは禁物なのだなと改めてそう心に決めるのであった。

そうやって心に決めたところで、じゃあすんなりと無理なく生きられるかと言えばそんなことはない。「無理をしない」ように生きるのってホントに難しく、どちらかといえば「無理をする」生き方の方が短い目でみれば楽である。とにかくがむしゃらになって、目の前にある頼まれごとやすべきことに邁進するうちに知らず知らずの内に身体が蝕まれていき、あるとき身体が悲鳴を上げてどこかに破綻を来すのが世の常であり、おそらく人間はそうして心身のバランスをとろうとするのであろうけれど、それがあまりに大味になると患う病が途端に大きくなる。まだやれる、まだ大丈夫だ、痛み止めの薬を飲めば何とかなる、お酒で誤魔化せばストレスはやっつけられるなどと上意下達的に身体をケアしていけば、いずれはわずかなシグナルにも気付かないような身体へと変貌を遂げるために、死に至るような大きな病が突然我が身を襲うことに繋がる。

スポーツの世界では、というよりも僕の経験側なのでラグビー界と表現した方が正確かもしれないが、少々痛くてもその痛みをおして無理をしてプレーしていれば、「あいつは痛みに打ち克とうと努力している」とみんなに認められるから精神としては楽である。それよりも、この痛みではどうしても思い切ってプレーできないから練習を休もうと自らで決断を下した方が精神的にはつらい。なぜなら、あいつは戦いの場から逃げ出したと仲間から後ろ指を指されることが何よりも怖いからである。チームにいながらの疎外感は何とも言えず心苦しい。そんな思いをするくらいならば、痛くても練習をしようという気になる。

だからといって、痛ければすぐに練習や試合を自重すればいいのかと言えばそうでもない。チームとして戦う以上は、少々の痛みがあっても無理をしなければならないときも必要である。この「無理をしなければならないとき」っていうのは、勝敗強弱を論じるときには必要性を増す。日本一を決める決勝戦の前の日に捻挫をしたからといって「じゃあ試合には出ません」というのは通じないし、自分自身もそれくらいで出場しないのは到底納得がゆくものではない。だけれども、勝敗強弱を二の次にして、本人にとっての成長や人間的資質の涵養という点からみればどうだろうか。どちらが「正しい」選択なのかを想像してみれば、それはそれは難しい問題である。

痛いからといってすぐに投げ出す人よりも、少々の痛みならば歯を食いしばって辛抱しようとする人の方が信頼できると僕も思う。けれど、どんな状況であってもそうだというわけではなくて、とにもかくにも痛みを我慢することが、チームという共同体の一員であることの絶対必要条件にするのはちょっと違うだろう。人それぞれ痛みの感じ方は違うし、何より痛みという感覚は生存戦略上においてはなくてはならないものであるのだから、痛みという感覚をもっとデリケートに扱うべきであるし、また深く考えることに値するキーワードにもなるべきものである。それは他者の痛みであっても自分の痛みであっても変わらない。

ズキズキと痛む腰を抱えていると、なんだかシリアスにこんなことを考えてしまっているのであるが、痛いっていうのはホントに嫌なものである。現役を退いてからというもの、当時よりもさらに痛みに敏感になり、痛みが嫌いになったような気がしている。おそらく現役時代には、少しの痛みがあればそれを我慢することで仲間から信頼が得られるぞと、マゾっ気ばりばりの深層心理が働いていたように感じられて、その頃の自分を窘めてやりたい気持ちにさせられたりもするが、頑固な当時の僕が聴く耳を持っていたとは到底思うことができずに苦笑いするしかできないのであった。