平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「お釣りを渡されて」身体観測第37回目

あるコンビニエンスストアで買い物を済ませて店員にお釣りを渡されたとき、思わず目の前で起こった出来事を疑ってしまった。誰に向けて声を発しているのかわからない「ありがとうございました」という声とともに、小銭を半ば放り投げるようにして渡してきたからである。

そうかと思えば、右手で小銭を持ち、左手でこちらの手を支えるようにして、作り笑顔を満面に浮かべながら渡してきた店員も過去にはいた。いずれにしても、寒々しい気持ちで商品を受け取らざるを得なかったのはどうしてだろうか。

地元で馴染みのお店に行けば顔見知りなこともあって会話は弾むが、コンビニではそうはいかない。お店側からすれば、僕は不特定多数の消費者の一人に過ぎないわけであり、素性のわからない人に触れるのもいやだという感情から店員は小銭を放り投げる。

その一方で、お客様対応マニュアルへの過度の依存から、これが正しい対応だと安心しきって笑顔を浮かべながら手を添えてくる。両極端なお釣りの渡し方ではあるが、客を消費者扱いしているという点では同じである。つまり客は、自分を一人の人間としてこれっぽっちも認めようともしない店員の前に立たされて、己の無力感に苛まれるのである。

それはラグビーにおけるパスについてもあてはまる。チームメイト一人一人のプレースタイル、性格、癖、趣味嗜好などを知り尽くしていればパスは自ずと通るのだが、いつまでも自分だけのプレーに酔いしれて、サポートしてくれている選手がどんなヤツなのかを気にもかけなければ、パスはいつまでたっても通らない。「自分とその他大勢」という構図でチームが構成されていると捉えている選手が放るパスは、無情にも行き場をなくして地面に落ちる。

隣にいる人の顔を知ること。そして言葉を交わすこと。人と人とのつながり、そして選手と選手の信頼感はそうして築かれるのだと思う。

<07/11/13毎日新聞掲載分>