平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

スポーツを「学ぶ」。

修論を提出してから1週間が経った。
その間には大学の入試に立ち会い、ジュニアスポーツ教育学科の会議に出席する。
ついさっきまで大学院生気分満々だったのが、あっちゅう間に教員気分になる。
新学科ということもあるのか、ホントにやるべきことが山積しているという感じで、どうやら4月以降はのんびりと構えていられそうもない。
でもまあ、雑事に振り回され過ぎて演習や講義に差し支えがあっては本末転倒であるから、新学科が目指すべき道筋をなぞりながら自らのやるべきことに邁進していこうと思う。

スポーツ立国調査会では2009年度のスポーツ省(庁)の新設が検討されており、これからの日本社会においてスポーツはますます幅を利かせるだろう。
事実、各大学ではスポーツに関する学科が雨後の竹の子のように新設されている。
定員割れを新学科の設立により回避することができた大学も多く、
この事実からは世間においてのスポーツの注目度を窺い知ることもできる。

でもこの現象をどう捉えればよいのかについて考えるとき、
僕はちょっと頭を抱えてしまう。

スポーツ新学科は間違いなく「流行り」である。
つまりは少子化の影響を受けて大学が講じた策であるからして、付け焼き刃的な発想で新設したスポーツ学科の将来的な見通しはどちらかと言えば暗い。
学生を確保するための「旗上げ」に留まれば、そのうち先細りしてゆくのは目に見えている。

少子化だ!」と騒いだところでそれは社会的な見方でしかなく、いつの時代も子どもは子どもであるし、子を持つ親も親であることに変わりはない。
子どもの行く末を心配しない親はいないし、
自らが歩む道に不安を覚えない子どももいない。
これからは日本だけでなく世界が経済的に縮小してゆくのは火を見るよりも明らかなことから、そうした親の心配や子どもの不安は高まっていくだろう。

生きていくために今よりもシリアスな場面に遭遇することが多くなれば、
よりシビアに思考することが求められる。
就職口が見つからない社会情勢で自らのファッションに気をかける暇などない。
そうした社会を目の当たりにして「このままではダメだ」という危機感を抱いた親と子どもは、「ホンモノ」への嗅覚が研ぎ澄まされる。派手に修飾された文言ではなく地に根を張った理念にもとづいた行為に鼻が利くようになる。
そのときに生き残るのは「ホンモノ」の学科だけである。「ホンモノ」の学科とは、常識的なものの考え方を学べる学科である。

では、スポーツの学科の「ホンモノ」とは何だろう。

今日の社会においてスポーツの認知度は高い。
がしかし、スポーツの文化的価値についての認知度は極めて低い。
スポーツの社会的な位置づけ、心身の発達から考えるスポーツ、スポーツの歴史、ボールゲームのルーツなどを挙げていけば、私たちはこれだけ身近にあるスポーツのことをあまり深くは知らないことに気付くはずである。
自分に近ければ近い事象ほど目につきにくいことはよくある。
だからこそ僕も現役を引退してからようやく気付いたのであるが、
こうした内容を調べたり研究していくと意外にも面白くて、
スポーツの枠内だけでは収まらずにあらゆる事象に通じていくのが不思議である。
身体を使うだけにスポーツの現場から得られるのはシビアなものばかりであり、
シビアに身体が反応して学んだものだからこそ日常的な汎用性は高い。

だが、この汎用性の高さはスポーツの取り組み方によっては諸刃の剣となる。
歪な指導の下で心とカラダが育まれれば、人としての成長に大きく影響する。

スポーツは単なるゲームであるとの認識はスポーツを貧しくさせる。
こうした認識は、これまでにたくさんの子どもたちを傷つけてきた。

幼少の頃から他人との比較にさらされ続けた子どもは、どのようにして自己アイデンティティを基礎づけたのであろうか。
逆に、他人よりも秀でたことで得た優越感により自己アイデンティティを基礎づけた子どもは、引退後に襲う虚無感と対峙することになる。
それをどのように克服したのか、もしくは克服できずに今ももがいているのか。

スポーツは勝者に栄光をもたらす。
けれども勝利はスポーツがもたらしてくれる最高の果実ではない。
スポーツは、自らの「成長」というかけがえのないものをもたらしてくれることに、私たちはもっと誠実であるべきだと思う。

勝敗とは誰の目にも明らかな結果である。
その結果に過剰な反応を見せる大人たちの態度は、
子どもたちを苦しめることになる。
煌びやかなスポットライトが浴びせられる選手やチームは限られており、
競技者のほとんどが敗者となるのは避けられないのだから、
勝敗という乾いた見方に終始するのではなくて、
身体的快楽を伴い、観る者を感動させるスポーツの価値を問うべきであろう。

つまりのところスポーツの技量だけを高める教育などありはしないのである。
ドラゴンクエスト」のように、敵と戦えば戦うほど経験値が上がってレベルアップする如く、練習すればするだけうまくなるわけもない。
人としての成長がなされなければアスリートとしての向上はありえない。
ごくたまに傍若無人な態度のアスリートがのさばっているのをみかけるが、
それは強力なスポンサーやメディアの庇護の下だからであり、
彼らが「真のアスリート」であるとは口が裂けても言いがたい。

これまでスポーツの学問なるものは、そのほとんどがアスリート向けであった。
つまりは競技力の向上という切り口のみで語られてきたために、閉鎖的な特徴があったと言わざるを得ない。
そうではなく、スポーツを自らがするしないを問わずスポーツそのものを学ぶ場があってもいいのではないだろうか。
スポーツを通して社会をみる。
スポーツを通して人間をみる。
社会学的、人類学的見地からスポーツを学問することは、
今日の社会では極めて重要なことであるような気がするのである。

たとえば自分の子どもが何かのスポーツをしているとしよう。
ある日、練習に出かけようとする子どもが浮かない表情を浮かべている。
そんなとき、スポーツをまったく知らなければ、しんどい練習から逃げているだけだと判断して叱咤激励するかもしれない。
だけど、その子どもが憂鬱に感じていたのは、もしかすると指導者の怒鳴りにうんざりしていたのかもしれないし、チームメイト同士でのやりとりに何らかの問題があったのかもしれない。
その競技を好きで続けたいと願っても人間関係がそれを阻む状況に陥れば、
大人であっても浮かない表情を浮かべるはずである。
大人に比べれば表現方法に乏しい子どもは自分が感じていることをうまく言葉に表すことができない。
だからこそ、側にいて話を聴いてくれる大人の態度が大切になる。

「スポーツを学ぶ」というのは、輝かしい競技経験を持つ人の一方的な自慢話を聞くことでも、経験則によるゴリ押し指導を受け継ぐことでもなく、スポーツの本来的なあり方を知ることである。
それを知ることによって「スポーツ」に対する接し方が変わってくる。
せめて「子どものスポーツ」が「商業的スポーツ」の巻き添えを食わないためにも、一番身近にいる大人が防波堤を築いておかなくてはならない。

スポーツはしんどない。おもろいねんって、ほんまに。
選手が経験するこの「おもろさ」を、学問として学ぶ。
僕がイメージしてんのはこんなところなんやけれども。