平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

理論と実践、ことばと感覚。

2月に入ってもう1週間が経った。
気がつけば明後日は口頭諮問である。
なのに、それに向けての準備はまったくしていない。
2日前になるとさすがに焦ってきたので、
もう一度論文を読み直すことに決めた。
そう、今から読むのである。
自分で書いたものであるからスラスラと読めるはずなんだけれど、
提出してから2週間ほどあいているのですでに別の人が書いたもののような印象を受けることは間違いがないが、それは楽しみでもある。

話はガラリと変わる。

先日、甲野先生の講習会に行ってきた。
講習会に参加したというよりも集中講義に紛れ込んだというのが正確な表現で、
先生が神戸に来られているのは願ってもないチャンスだと押しかけて行ったのであった。

阪神今津から阪急電車に乗り換え、これなら時間通りに到着するなと目論んでいると、西宮北口から電車がいきなり反対方向に動き出した。
「なんでやねん?」と狼狽えていると、ふとメガネをかけた男の人から「平尾さんですか?」と声を掛けられる。
おそるおそる「はいそうですが…」と答えて話をすると、甲野先生の下で稽古されているK君であることがわかり、彼は挙動不審な僕をどこかで見たことがある顔だなあと思って声を掛けてくれたのだという。
目的地とは反対方向に進む電車の中で2人が出会したことに、
なんだか微笑ましく感じながら楽しいお喋りをしながら向かったのである。
ほどなく西宮北口で乗り換える必要があったことに気付いて、「神戸に住んでから何年たってんねん」というどこかから聞こえてくるツッコミもお構いなしに「まあしゃーない」と開き直っての遅刻となった。

さて、到着すると甲野先生を囲んでの講義が始まっていたので、
そそくさとみんなに交じる。

身体というものがこんなにも不思議で魅力があるんだよ。
こんなこともできるし、それを応用すれば、ほら、こんなことだってできるんだ。

というメッセージが込められた数々の技や動きのオンパレードに、
一瞬にして僕のテンションははね上がる。
「追い越し禁止」「足裏の垂直離陸」など、これまでに身体で実際に体験したり耳にしているはずのあれこれが瞬時にフラッシュバックされてきて、
それが抜群に心地よい。

相手をつかんでこちらの引き寄せるときに、
つかむ手の力の入れ具合が「ドアのノブをつかむ感じ」であり、
また「親しい人との握手」程度という陽紀くんの例えがまた絶妙で、
ふむふむと納得すると同時にその絶妙なたとえ振りに笑うしかなくなる。

指先や親指の付け根あたりで力を入れ過ぎれば、
その強弱の動きを感じとる相手の身体はこちらの働きかけに反応してしまう。
そこから無理矢理力任せに引っ張り合えば、力の出し合いとなって筋肉量や体重の多寡による影響を受けることになる。

だから無理な力を入れる必要はない。
とはいっても、ある程度はしっかり握らなければ、
するりと手が抜けてしまってよろめくことになる。
強く握るのでもなく優しく握るのでもない。
その微妙な加減を、陽紀君は先のたとえに託しているのである。

この加減をもう少しテクニカルにいうと、
「自分の手の平が相手の腕と接している面に対して均等に圧力をかけるように」
という言い方になる。
力を入れようとすると、どうしても握力計を握るときのように指先に力が入ってしまうが、そうではなくて、ジワーッと力が伝わる感じというかなんというか。
血圧計に腕を突っ込んだときに感じるあの感じが一番近い。
というのもまた陽紀君のたとえなのであるが。

陽紀君の手解きを受けてからしばらくして、甲野先生の技を受けた。
数日前に送っていただいたメールに、
「劇的な進展がみられたのでお楽しみに!」とあったので、
ワクワクしながら目の前に立ってみれば、案の定、その威力は凄まじかった。
以前に受けた感じとはまったく違った破壊力…というのはちょっと表現が適切ではなくて、何がどうなったのかわからず頭に「?」が飛ぶというのが甲野先生を受けたときの印象なのだけれど、今回はというと、頭に「?」が飛ぶヒマもないくらいいきなり僕の身体が浮き上がり、そして吹っ飛ぶといった感じであった。
なのに、かなりの手加減をされていることも伝わってくるので、
もし100%でやられるとどうなってしまうのかを想像すると空恐ろしい。
いやいや、身体に蔵する力を見せつけられたという意味ではワクワクするといった表現がぴったりの心境である。

この劇的な進展は「灌漑用水の原理」の発見にあるという。
力が淀みなく身体に注ぎ込まれるといった感覚を指し示したことばではないかと僕は理解しているが、その感覚への想像はそれほど難くない。
武術をかじった程度の僕であっても「なるほど!」と納得することができる。

問題はここからなのだ。

その「なるほど!」を自らの身体で実践できるかどうかがとても難しい。
身体のいかなる箇所であっても居着いてしまえば、水は淀みなく流れない。
それが相手をつかんでいる腕であっても、
踏ん張らないようにと踏ん張ってしまっている足であっても同じことである。
さらにこの問題を難しくするのが「脳」である。
「身体のいかなる箇所であっても」居着いてはいけないのだから、
それは「脳」であっても例外ではない。
身体が伸びやかに、自然な流れのままに動くためには、
たとえ「脳」であっても居着いてはいけないのである。

僕は、この脳への居着きを回避することがいちばん難しいのではないかと思う。

放っておくと、頭は理由を探るべく理屈を考える。
体重100kgを超える人がこちらに向かって走ってくるのが目に入ると、
ほとんどの人は必然的に身構えてしまうだろう。
その瞬間、
自分の体重は80kgだから相手よりも20kgも軽いぞ
            ↓
ということはまともにぶつかれば物理的に考えて僕が吹っ飛ぶことになるな

と脳は考える。
合理的に考えるのが脳なのだから、大概の人はこうした皮算用をする。
この皮算用が生み出すのは「恐怖心」であり、これが芽生えると身体的なパフォーマンスは劇的に低下してしまう。
この状態は「脳に居着いている」ことに他ならない。
この脳への居着きは、身体は相手が加速する前につかまえようと動き出そうとしたかもしれないにも関わらず、自然に動こうとする身体に頭が制御を加えてしまうことになる。

生半可な知識が身体を緊縛している。
このケースでいうと、身体を一つの物体としてみなす物理的な見方が、
身体に潜んでいる力を奪い去ることになる。
こうした脳への居着きを回避するのが難しいと感じるのは、脳を駆使して考えることでしか辿り着けない境地に身体の問題はあるからである。
脳で考えた結果としての納得がなければ、実践できたことは偶然の為せる技に過ぎず、様々な動きを人に伝えることはできない。

これまでにラグビーで培われたいろいろな感覚をことばに置き換えていると、自分が溶け出していくような恐怖を感じることがままにあるが、この経験は感覚とことばの関係を象徴しているように思われる。
職人が無口であることからもわかるように、感覚とは、ことばを通り越して身体が熟知しているものである。
「うまく説明できないんだけれどとにかくできてしまう」のが感覚である。
相手を抜き去った後になって、初めて自分が鋭角なステップを踏んだことに気付くのであって、それをことばで説明しろといってもそんなことはできやしないし、それを一つ一つ紐解いて理詰めで説明していくことによってそうした感覚は徐々に失われていくような気がする。
だから、ラガーマンとしての自分が瓦解していくような恐怖を感じるのであろう。

ただし、そうやって脳で紐解いた後に再構築された動きほど、強固なものはないだろうとも思っている。

たとえば今回の講習では、気をつけの姿勢から腕を挙げていくと、手の平の返し方によって余分な力が入らない挙げ方があることに気付き、実際にやってみてそれを実感することができた。
ラジオ体操のようにピンと腕を伸ばして上げたり下げたりするのは効率的ではないということに気がつくと、決められたフォームを強いられるウエイトトレーニングがますます身体に負担をかけることにもなるなあと思われ、身体を練ることへのイメージがどんどん広がりをみせる。
その方法はと訊かれれば口籠もるしかないのは身体の問題だから避けようのないところだが、それでもヒントになるようなことばがなければとりつく島もない。

そんなヒントが散りばめられているのが甲野先生の講習会なのであり、その講習会に参加し、また先生の本を読んで、僕は動きの再構築を目指しているのである。

先生の技を受けた瞬間は笑うしかなくなる。
おそらくこれは、受けた時の何とも言えない感覚をすぐにことばにできないこともあるのだろうけれど、僕がことばを邪魔だと感じていることの表れであろう。
これまでに感じたことのない感覚を身体が受容しており、その快楽をことばなんかに置き換えないでくれという身体からの訴えなのかもしれないと、今回は特に感じることが多かった。

ただ吹っ飛ばされるだけで身体が変わっていくのを実感したというか何というか。
だから、先生の技を受けることだけで事足りるというか、それをことばに置き換える必要もなく、ただその感覚を持ち帰ってまた一人でああでもないこうでもないと考えて動くことで、あるときに思考を介すことなく身体がひとりでに動くようになるのかもしれない。

講習会で感じたままをことばにしてみたので、なんだかまとまっていないかもしれないけれど、このままアップすることにする。

とにかく、やっぱり、身体はオモシロい。