平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「身体的なブレークスルー」を経験するものとして。

本日の「基礎体育学」をもって春学期が終了した。
思い返せば大学の教員として歩み始めたのは今年の4月。
入試委員会やFD部会などの各種委員会の在り方や講義の仕方に評価方法、オープンキャンパスや高校訪問なども含めて何もかもが初めての経験だったために、とにかく突っ走っておかなければと意気込んでいたものだから、とてもホッとしている。
春学期が終了して、すでに先週のブログに「本当にホッとしている」との心境を吐露しているが、心のどこかでは今日の補講のことが引っ掛かっていたのだろう、今は本当に安堵している。

大学の教員になるまでに僕は大学院の門を叩いた。
神戸親和女子大の門を叩くことになったきっかけは、将来的にラグビーの指導者としてやっていくために一から教育を勉強しておかなくては、という動機であった。

僕が所属していた神戸製鋼ラグビー部には輝かしい実績を誇る先輩やOB方がたくさんいる。
とくに全国大会を7連覇した時代のOBたちは、それはそれは卓越した感覚の持ち主ばかりで、彼らのパーソナリティに当時の僕は威圧されっぱなしであった。
そうしたOBの中にはすでに指導者としての道を歩き始めている方もおられたので、将来的に僕が指導者になるとすればそういったOB方と肩を並べながら自信を持って選手を指導しなければならないことになる。

だがしかし。

引退するまでの2年間を怪我ですっかり戦列を離れていた当時の僕は、そういったOB方と肩を並べて自信満々に指導する自分の姿をうまく想像することができず、どうしたものだろうかという大きな不安を抱えていた。
「いったい僕に何が教えられるのだろうか」と真剣に悩んでいたあの頃が少し懐かしくもある。

そこでいろいろと考えてみたところ、というよりは内田樹先生の師弟論にしびれるほどの感銘を受け、甲野善紀先生の身体論にこれまでの浅はかな考えを打ち砕かれ、わが人生の師となった両先生と濃密な時間を過ごさせてもらうちに、僕という人間がだんだん変化していった。
そうしているうちにいつのまにか、「教える」というのは高度なスキルをパッケージングして伝達するものではない、という一つの考え方が身体の奥深くまで浸透するに至ったのである。

もしも、より高度なスキルを身につけている人ほどスポーツにおける指導力があるのだとすると、現役時代における実績の高さの順に指導者が順位付けされて、各チームに散らばるという状態が理想ということになる。
しかしながら、どのスポーツ界においてもそういった状態にはなっていない。
各スポーツ界を見渡してみれば、現役時代の実績と指導力のあいだには明確な関係性はないといい切ってもいいだろう。
「名選手、名監督にあらず」ということばもあるように、むしろ実績と指導力は反比例するかのような認識も存在しているくらいである。

過去にどれだけすごいプレーヤーであったとしても、その実績がコーチとしての資質に「直接的には」関与するものではないというのが、今の僕が考える指導者像である。

こう書いてしまうと、じゃあそのスポーツの未経験者であっても十分な指導ができるというのか、という反論が予測されるが、原則的に僕は「できる」と考えている。
人間としての身体的なブレークスルーは、各スポーツにおける専門的スキルの上達をも凌駕すると考えるからである。

ラグビーにおいてたとえるならば、鋭いステップを踏むための足の運びを事細かくいくら教えたところであまり意味はない。足の長さも違うし、相手を捉える間合いも違うし、利き足も違うし、それぞれの癖もあるし、身体はそれぞれ違うからである。
それよりも身体が心地よく動くようにとたとえ話を用いたり、「実際に動いてみたり」してその姿を見せながら、選手が伸び伸びと動けるような環境を整えていくことの方がより効果的で、そうこうしているうちに結果的に専門的なスキルは上達していく。
ようするに、身体的なブレークスルーを一度経験し、そのときに気持ちよさを身体に刻みこんでしまえば、あとはひとりでに必要なスキルが身についていくと、まあこういうわけなのである。

一つのスキルを身につけるための誰にとってもわかりやすい練習方法を繰り返すのではなく、ああでもないこうでもないと身体を伸び伸びと動かしているうちに、身体的なブレークスルーはあるときふと訪れる。
「おっ、できた!」と感じたあの瞬間のなんとも言えない恍惚感は、またもう一度味わいという欲望を駆り立てるほどに気持ちよい。
これまでにできなかったことができるようになったのだから、気持ちがいいと感じるのは当然といえば当然なのだけれど、ふと時間の流れの外側に置かれたようなあのふわふわとした心地良さは筆舌に尽くし難いのである。

この心地良さを選手の身体にもたらすのが指導者の役目であると、僕は思っている。このような指導が、決して一筋縄ではいかない気の長いものになることは百も承知である。

ここまで書いてきて今さらながらという感じもするけれど、
「選手時代の実績」を頭から否定するものではないのは、知っておいてほしい。
そうでなければ自らで自らの首を絞めることにもなるので、ちょいとツライ。
選手時代の実績に身をうずめて過去の経験だけで教えようとする指導者は論外だけれど、過去の実績を踏まえながらここまで書いてき
たような視点を持って指導に当たる指導者にとっては、選手時代の実績は大きな意味を持つものと思われる。

選手時代に自らの身体で試してみて成功したものと失敗したもの、得たものと失ったもの、つまりはそのスポーツから何を学んだのかということを言語化する姿勢を持つことは、後に続く後輩に対しての教育という意味合いで、指導者のみならずスポーツを引退した者すべてに求められるだろう。すべてを肯定するのではなく、どちらかといえば自らの失敗を語り継ぐような仕方で語ることが求められているような気がしている。

今、メディアを通じて目や耳に入ってくる引退者のことばのほとんどが自画自賛的な語り口であることに、僕はもう辟易としている。
各スポーツ界の有名選手は、現役時代から事務所に所属してタレント的な活動に従事している。自らの商品化を促すような自己アピール的言明が、セカンドキャリアを視野に入れた上で必要な自らのプロモーション活動であることも理解している。
にしても、スポーツ選手のタレント化はちょいと度が過ぎてやしないだろうか。

スポーツのショー化はどんどん進んでいる。
こうした現象はメディアや大手広告代理店をはじめ、大方の国民が望んでいることなのかもしれないけれど、少なくとも僕は大手を振って歓迎したくはない。
「なんとかならんもんか」と日々、悶々と考えていたりもする(考えているだけなのだが)。

社会に組み込まれた一つの産業として今日のスポーツは大きく報道されている。
それを否定することはできないし、否定する気もない。
でも、スポーツをすることで経験できる身体的なブレークスルーはとてもとても心地良いもので、自らの身体が秘めている可能性を感じさせてくれるのだから、アスリート志向ではない者にもその機会が広く行き渡るようであって欲しいと思う。そうした視点からの報道を期待するのは難しいだろうけれども。

そういった意味でスポーツをもっと手軽に楽しく行えるような環境が整えばいいよなあと思う。
ここでいう環境とは、芝生のグラウンドであったり、温かな目を持つ指導者であったり、ともに楽しむ仲間や家族であったりで、特権的な領域に押しやるのではなく身近で楽しく行えるものとしてのスポーツを、もっともっと真剣に考えてみよう。うん、そうしよう。