平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

瞬発型からスタミナ型へ。

今日で春学期が終了した。
あとは、昨日の土砂降りの影響で休講になった分の補講を一コマ残しているだけである。講義内容はさておき、大学教員としての春からの仕事が今日でひと段落ついたことにもんのすっごくホッとしている。ふう。
しかし春学期の自らの講義を振り返ってみると、誠に拙い講義の進め方であったなあと赤面するほどに恥ずかしくなり、学生たちにいらぬ負担をかけてたかもなあと思わず嘆息。駆け出しの大学教員はもっともっといろんなことを学ばねばならないということだろう。
とくに、内容をかみ砕いて学生たちにわかりやすく説明することが今の僕には必要だろうと思われる。しっかり話すには、しっかり思考しておくことが大前提となる。秋学期からは、想像力を働かせてもう少ししっかり準備することを心がけよう。おそらく春学期はこの準備が不足していた。そう思う。


かつての生活と比べると、次々と仕事が舞い込んでくる今の生活はとても忙しない。ただやみくもに時間が流れていて、その流れはゆったり感じることができるのだけれど、細々した仕事はそれなりに増えていく。
気がつけば「あれもせな、これもせな」と焦っている自分がいる。

ラグビー選手時代は、練習や試合などの体力的にも精神的にも負荷の高い時間を短期的に過ごした後は、のんべんだらりと過ごす時間があった。
夏場の練習なんてそれはそれはエネルギーを消耗するのだけれど、練習前後の身体のケアを含めた約4時間以外は、それこそクーラーのきいた部屋で本を読んだり昼寝をしたり、喫茶店でコーヒーを飲みながらほっと一息ついたりできた。
短期集中型でやるときはやって、休む時は休む。
緩急の差がはっきりしている生活をしていたのである。

当たり前だけれど今はそんな生活リズムではない。
ゆったりと流れる時間の中であれもする、これもするという、まるでマラソンをするようなペースで日々を過ごさなければならない。
かつての僕が心がけていた、無酸素で100mを一気に駆け抜けるような、そんな体力は今は必要とされていない。

こうしたことは頭では分かっているのだけれど、数年来の生活で身に付いた習慣はなかなか思うように変化してはくれないのである。まさにこうした現象は身体というものの賢さの表れであり、今僕が生活環境の変化に対応しきれずに戸惑っているのは、一度身についたリズムや動きを律儀に繰り返している証拠であって、だからこそ必然な戸惑いでもある。
しばらくのあいだはこの環境の中にじっくりと身を浸すことによって、こうした戸惑いは徐々に消えゆくものなのであろうと思う。それでも日々があまりに多忙に過ぎ、疲労度が増してくるほどに脳みそというヤツがあれこれと横やりを入れてきて、明確な答えを出そうと急かしよる。
迫りくる重圧に耐えかねて、それらをどこかに逃がそうとして排他的になったかと思えば、被害者意識がむくむくっと心の奥底から芽生えてきたりする。
そして、思わず愚痴をこぼしたり自らの正当性を主張してしまう自分自身がいやになって、また余計なストレスが生じることになるのである。

まあでも、ここにきてようやくゆったりとしたペースで長距離を走るというイメージが湧きつつあるのは確かである。
無時間モデルで物事を考えることがいかにして不毛であるかは、内田先生の著書を読むというエクササイズからすっかりと身についている(と思っている)。
それでも僕は、短時間モデルで物事を考えるという習慣からまだ抜けきってはいない。短期的な時間内での成果が目に見える形で欲しいと願っている自分が、
心のどこかにまだ潜んでいる気がしている。

今すぐにどうこうする問題でもない問題を、今すぐになんとかしようとするのはとてもしんどいことだし、そうした力任せのアクションは世界に歪を生み出すような気がする。
そしてその本人には徒労感がまとわりつくだろう。
無時間モデルでもなく短時間モデルでもない長時間モデルで思考するということは、「流れに乗る」ということに尽くされる。
傍らで走る人と足並みが揃ったり、流れる景色を眺めながらその景色の一部と化したり、疲れたら立ち止まって休息を取り、精気が戻ればまた走り出す。
そうこうしているうちにいつのまにかどこかにたどりつくのだと思う。
おそらくは無意識に願っていたと思われる「どこか」で「だれか」と笑い合えることだろう。

「どこか」も「だれか」もひそかに心当たりはあるけれど、それはまた別の話になって、長々と書いてしまいそうなのでまたいつか。

というわけで、明日からは少しペースを落として走ることにしようと思う。