平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

『バカにならない読書術』を読んで。

連休明けの今日は事務所に出勤。
朝起きてすぐに干しっぱなしにしていたおかげでびしょびしょになった洗濯物を取り入れるというサイアクの目覚めではあったが、何とか気を取り直して家を出たのであった。

家を出る直前にふと目についてカバンに放り込んだ「バカにならない読書術」を電車の中で読む。
オモシロい。
養老孟司流の読書術にはフムフムと頷くところが多く、とくに“ひっかかるところを読む”というのには納得である。
知識を得ようとして読む本は比較的にスラスラと読める。
でも内田先生のような独特のリズム(身体感覚)で書かれている本はスラスラと読むことができない。
この手の本を理解しようとするときは、どうしても書き手のリズムに合わせて読まざるを得ない。定型的な文章をツギハギしているのではなく、ことばを書き連ねながらに思考しているのだから、その思考の軌跡を辿らないことには理解することはできない。読みながら「うん?」とひっかかる箇所を一つ一つ紐解いていくことで、本の内容が身体の内奥にゆっくりと染み込んでいくのである。

そんなめんどくさいことをしなくてもいいという方がおられるかもしれない。
そんな読み方をしなくてもさらーっと読んだって理解できるっつーの、という方がもしおられるとしたならば、それはおそらく「既知に還元」しているからだろう。
書かれてある内容と似たような知識を自分の中から引っ張り出して、それをあてはめてしまって「なるほど」と感じてしまっている。
そうではなくて、今までに培ったものの見方や考え方をできる限りペンディングしておいて、まっさらになって読む。
すると、あちらこちらで聞き慣れたフレーズであっても、前後の文脈から判断してこれまでとは違った意味を表現していることにも気づくことができる。

「三つ子の魂百まで」には、人間、ものごころつくまでに培われた性格は一生変わらないという意味がある。
けれど養老氏はこの諺をそのような意味に捉えてはいない。

「人間はひたすら変わっていくものなのです。変わっていって当たり前だ、という常識がまずあります。そういう常識の中で、あいつは死ぬまで、あの点だけは変わらなかったよなあ、と驚嘆、感嘆したときの言葉なのです。人間変わるのが当たり前なのに、変わらないものもあるんだなあと。そうでなければ格言になって残るはずがないでしょう。」(『バカにならない読書術』朝日新書 p.36)

既に知っていたはずの諺の意味とは正反対の解釈に思わず引っかかるか引っかからないかは、どれだけ既知に固執していないかで決まる。
「つまりのところはこういうことなんでしょ」と安易に結論づけないで、
「うーん、なんとなくそんな気もするけどどうなんやろか」くらいで留めておく。
この既知に還元するかしないのかの差はとてつもなく大きな気がするんやけれど。
かと言ってすべての本をそうして読んでしまうと、自分が何者なのかわからなくなってしまう恐れもあるからそのバランスが難しいところではある。

養老氏の本を読んでいると身体で納得する箇所がとても多い。
だから流れで読んでいるうちはとても心地よいのだけれど、途中で論理的に理解しようとした途端に難しくなって頭を抱え込んでしまうこともある。
身体感覚が盛りこまれた本はこちらも身体感覚をフルに研ぎ澄まして読む必要があるのだなと、久しぶりに氏の本を読み、文体に触れて感じたのであった。