平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

身体よ、どこへいく。

今日はSCIXの練習。
新学科設立準備委員会に出席してからの参加となったので、
練習も終わりに差し掛かったあたりでみんなと合流した。
受験が終わってあとは結果待ちの前キャプテンを筆頭に、
引退した高校3年生がぞろぞろと練習に来ている。
たくさんの懐かしい顔を見て、
みんな元気にやってたんだなと、なんだかホッとする。

今日のタッチフットは、片方のチームのデキがあまりよくなかった。
隣のプレーヤーとのコミュニケーションがほとんどなく、
パスがうまく繋がるケースがほとんどみられない。
個人技に頼り過ぎるが故に相手プレーヤーに囲まれてしまい、
ポイントを作ってからもサポートが遅く球出しがスムーズにいかない。

効果的にパスを繋ぐことはそう容易にできることではなく、
それが達成されるためには、ラグビー的スキルの問題よりも人間的な資質が大きく関与している。
たとえキャッチしにくいパスが来たとしても、相手に「ドンマイ」と声を掛けて絶妙なパスが来るのを忍耐強く待つ。
また、味方が走り込んでくるタイミングが悪かったとしても、相手に「ドンマイ」と声を掛けていつか抜群のタイミングで走り込んでくることを信じて何度もパスを放り続ける。

パスの放り手と受け手が、このような姿勢でいればいずれパスは繋がる。
「わりい、次はもっとええとこに放るわ」
「すまんすまん、オレももう少しタメてみるわ」
といった譲り合い。というか責任の背負い合いというか。
「うまくパスが繋がらない」ことの原因を自らにみる姿勢を持たなければ、
滑らかにパスが繋がるはずはない。

タッチフットの最中にパスが繋がらなかった2人に向かって、
「お前ら仲悪いんとちゃうかー」と冗談めいて言うのにはこうした訳がある。

ラグビーに真っ正面から向き合ってからつくづく感じていることだが、
ラグビーは見かけよりもホントにデリケートなスポーツだなあと思う。
これは想像に過ぎないけれど、
ラグビーに限らずともスポーツは繊細な部分を持ち合わせている。
だけど、そうした繊細さを掘り下げる方向にではなく、
繊細さを覆い隠すような仕方でスポーツが語られているような気がしてならない。
一昔前に比べるとまるで身体を使う機会が減少した現代社会においては、
スポーツが果たす役割は総体的に肥大化していると思われる。
身体を動かしたいという欲求は、おそらく誰にもある。
人間としての根源的な欲求だからである。

私たちの周りをキョロキョロと見渡してみたところで、
その欲求を満たすようなものや場所は差し当たって見当たらない。
わざわざスポーツジムに通って専門的なトレーナーからのアドバイスをもとに、
身体がどんどん機械化されていくか、メディアが持ち上げることで次々に流布されるダイエット法や健康法やエクササイズを試してみては、3日かそこらで力尽きるというのが相場だろう。

都市化が進むにつれて身体はその存在を強めることになる。
文明化が進むというのは端的に言えば便利になるということであり、
このときの便利ということばには「極力、身体を使わない」という意味がたっぷり込められている。
遠くまで歩かなくてもよい。
スーパーで買い忘れた品物があってもコンビニで買えるから問題ない。
食事の用意もレンジでチンすればよい。
これではどんどん身体が退化していくというものである。
数本の永久歯がない状態で生まれてくる子どもが増えているのも頷ける。

相も変わらずマンション建設が続き、道を挟んでローソンがあるような街では、
身体はどんどんとその居場所を失っていくことになる。
脳が作り上げた人工都市では、自然である身体の居場所はどんどんと削られていってしまう。それが身体そのものへの排除にも繋がり、身体を自然であるとみなすことができなくなる。
足が痛ければ病院にいって診断を受ければそれで充分である。
風邪を引いたときは薬を飲んでおけば治る。
ちょっと頭痛が続いたときは頭痛薬で痛みを抑える。
まるでモグラたたきゲームのように、ある症状にはある治療が対応していてそれをすれば完治するかのように考えるのは、身体を機械に見立てていることの何よりの証拠である。

身体はそんな単純なものではないだろう。
完璧に体調管理をしていても風邪を引くときは引くし、
病院で捻挫だと診断されたとしても、捻挫にも色々な症状があるわけであって、
捻挫だからといってアイシングをしてリハビリをすれば治るってものでもない。
こんなことは少し考えればわかることだとは思うが、
現実にはそのように考える人が少ないこと自体が、社会が身体の縮小傾向にあることを示唆している。

さらりと書くつもりがつい熱くなってここまで書いてしまったけれど、
つまりは何が言いたいのかというと、
社会的にみれば身体の縮小傾向にある現在において、
これから確実にスポーツへの関心や興味が強まっていくものと推測される。
そのときにスポーツがさらに身体を縮小させる方向に働きかけるとすれば、
身体というよりも人間そのものはどうなっていくのだろうか。
日常からの逸脱として、身体を開放するものとしてあるはずのスポーツが、
追い打ちをかけるように私たちの身体を緊縛するのは想像するだけでも痛ましい。

身体が逃れ得る場としてスポーツがあるためには僕に何ができるだろうか。