平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

あり合わせで書くこと。

最近はそんなに更新していなかったのに「書けない」となると無性に書きたくなってきて、ブログのメンテナンスが終わるのを今か今かと待ち侘びていた。

さてさて今日の10時に終わる予定だったなとパソコンを立ち上げてみると、15時まで工期が延長されるとの告知が為されていてガックリくる。

あれも書こうこれも書こうと息巻いていたイメージが脆くも崩れ去り、というか書き出す前に膨らみすぎた想像はいざ書き出す段になって縮小する傾向にあるので、ガックリきたのは自分の思い通りに事が運ばなかったことへの苛立ちに過ぎない。

メンテナンスが終わっているはずなのに終わっていなくて、その現状に「本来ならば書けるはずだったのに書けないのはいかがなものか」と反応したのは、書きたいことへの意欲も想像も実は大したものではなくてただ「書けない」という状況への反発だったのだ。「してはいけないこと」を思わずしたくなってしまうのは誰もが持つ特性だろう。

もっと言えば、「書けない」状態が続くことで、ここんところ滑らかに書くことができずに多少の苛立ちを感じていた自分への言い訳ができるのだから、ブログの工期延長はむしろ好ましく感じていた部分もある。

いざメンテナンスが終了して追加された機能のあれこれをいじくっているときに感じたのが安堵感ではなく、いつでも書けるという元の状態に戻ったことへの窮屈な感じだったのがそれを物語っているように思う。

少し前にも書いたけれど、このブログに書けなくなりつつあることの実感は日に日に増している。

なんだかねー、ホント書けないのですよ。

書きたくないわけではないのに書けない。

このときの「書けないなあ」というモヤモヤは100%僕の実感なのであって、更新頻度が激減したとか一回ごとの文章量が減ったとかの一目瞭然なものではない。

書き終えたものを読み返したときに「なんだこれは?!」というような違和が絶えずあって、それに加えて書きながらに感じる違和もまたあり、その違和と対峙するにはちょっとしたエネルギーがいるんだけれどそのエネルギーが少し枯渇しているというか何というか。

書けば書くほどにモヤモヤしていくこの感じと距離を置こうとして、僕は「書けなくなっている」のかもしれない。

だとすればそれは由々しき事態だ。

書けば書くほどにモヤモヤしていくのは当然のことであるとこれまでは考えていたはずで、このモヤモヤを得たいがために「書く」行為に気が向いていたともいえなくもない。書くことで生まれるモヤモヤを解消するためには様々な方面での情報が必要で、だからこのモヤモヤは学ぶきっかけでもあって、一時的にはモヤモヤしたとしてもそれが解消されたときにはスッキリ感が感じられる。

このときのスッキリ感にも幾ばくかのモヤモヤが付随するからモヤモヤは断続的に続くのだけれど、やっぱりモヤモヤはモヤモヤで不快なわけだから節目に感じられるスッキリ感なくしてはモヤモヤを断続的に抱え続けることはできない。

つまり僕は、モヤモヤを抱え込みすぎていたので新たなモヤモヤを受け入れたくなくて書けなくなっていたのだ(たぶん)。学びへの停滞局面に突入していたがためになんとなく書くことを避けようとしていたのである(これもたぶん)。

なぜそうなってしまったのかには思い当たる節があって、それはおそらくここ半年ほどに修士論文を書いていたからで、この論文というものの特性が大きく関係していると思われる。

論文には「論拠をはっきりさせる」ことが求められる。

「どこどこの誰々が述べていた」とか「どの実験のどのデータによれば」とか、自分が主張したいことの根拠をハッキリと示す必要がある。

でもそればかりに終始していてもダメで、自分の独自性つまりオリジナリティを発揮しなければならず、そのためには根拠を指し示しておいてその上で論じることになる。

アンケート調査をしてその結果から皆と同じような結論を導き出すことが論文なのではなく、これまでにあまり実施していなかった質問項目をアンケートに加えたり、どの項目とどの項目を照らし合わせるのかに工夫を凝らしながら、その工夫をことばで表すことによって独自性が生まれて論文は論文たり得る。

ということは。

実験やアンケートといった数字を並べただけでは不十分であることは言わずもがなであり、それを材料としてどのように仕立て上げるのかで論文としての価値が決まる。

いくらふんだんに有機野菜を使っても調理の仕方で失敗すればまずくなる。

このメタファーから言えば、たとえあり合わせの食材であっても調理の仕方に工夫を凝らせばそれなりに食べられるものになる。

つまり。

「この材料から何を作ろうとしているのか」という見立てをしなければ論文の価値を理解することはできないのではないだろうか、ということなのである。

と、ちょいと寄り道してしまったけれどもとにかく僕が描いている論文に対するイメージはこんなところである。

修士論文を提出し終えた今だからこうして冷静に振り返ることができるのだが、提出日が迫ってきて〆切の重圧から少々の焦りを感じていたときに、自分の主張を見事に補完してくれるありもしないことばを探し出していたことを思い出す。

喩えるならば、カレーが作りたくてありもしないルーを必死に探していたのだ。

いやカレーではないな。ビーフストロガノフとかの作れるはずもないものを必死に作ろうとしていたと思う。

そうなるとどうなるかというと、適切な食材がないから作れないと考えてとにかく食材を探そうと試みる。けれども論文の食材というのはスーパーで買えるような商品ではなくて文献を読み込むことでしか手に入らないわけだから、どこを探しても見つかるわけもない。見つからないから焦り、一向に書けない自分をもどかしく感じ出してじわじわと自信が溶け出してゆく。

さらには、なし崩し的に完成させた自らの論文を読み返してみて、その至らなさが突き刺さってきて自信はトロトロになった。今となっては「まあそんなものだろう」という気になってはいるんだけれど、初めての経験だったこともあって論文提出してすぐのときはほとんど放心状態になってしまっていた。ああ。

自らの考えを学術的に述べるのが論文なのだから作りたい料理に必要な食材を吟味することはもちろん必要なのは今では充分に理解している。ただ、これまでの僕は論拠をはっきりさせることなくこの身で感じたことをベースに書き連ねてきたので、「論拠をはっきりさせる」ことの意味とそれを書きながらにして強烈に実感したことの影響は思いのほか大きかった。

あり合わせの食材を調理すればいいと考えていた僕が食材の確保を気にし出したことによって、今度は食材の確保ばかりに気がとられて書けなくなってしまったと、まあこういうわけなのである(たぶん)。

冷蔵庫の残り物で作った料理も、張り切って高級食材を用意して作った料理も、ともに美味しいことには違いない。

誠に現金なもので、こうして論文にまつわるモヤモヤを解消した今となってはまた書けそうな気になってきた。

ブログというお皿にはあり合わせの料理がズラリと並ぶことになるとは思うけれど、どうぞよろしゅうに。

はー、スッキリした。