平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「レフリーへの敬意」身体観測第43回目。

SCIXラグビークラブの練習はゲーム形式で行うタッチフットを中心に行っており、コーチがそのレフェリーを務めることになる。

実際に笛を吹いていて感じたのは、すべてのプレーを目で確認して裁くのは限りなく不可能に近いということである。明らかな反則であっても、角度によってはレフェリーから見えなかったりする場合が多い。そんなときは、笛が鳴らないことを不思議に感じた選手たちが、訴えかけるようにこっちを見やる視線を確認し、ボールを持っている選手の落胆している素振りなどから総合的に判断して笛を吹く。

この総合的な判断というのはあくまでも推測でしかない。だが、この推測的ジャッジが成立するからこそ試合に流れが生まれ、エキサイティングな試合展開になるような気がしないでもない。

レフェリーに見つからなければ反則をしてもかまわないと高を括る選手は、反則を起こしてもそれがばれないように何食わぬ顔をしてプレーを続けるだろう。だからレフェリーは、どんな些細な反則も見逃さないと躍起になり、必然的に笛の数が増える。しかし、正直にルールを守ることを心掛けている選手は、反則に対する罪悪感がその態度に表出する。「やってしまった」という心の動きに身体が追随するのである。それを無意識的に感じとるレフェリーには、たとえ視認できなくてもジャッジを下せるとの安心感が生まれ、落ち着きのあるジャッジングが試合に流れを創り出す。

現象を正確無比に判断するのがレフェリーなのだとすれば、その人数を増やすか、もしくはビデオ判定を用いればいい。そうすればレフェリーへの不平や不満もなくなるだろう。しかし確実に試合はつまらなくなる。判断を過つものであるレフェリーに敬意を払うことはラガーマンに求められる節度であり、ラグビーラグビーたらしめる不可欠な要素なのだと、今になってようやく得心した次第である。

<08/02/12毎日新聞掲載分>