平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

ここにいなくてもあの人は必ずいる。

メンテナンスされたばかりのこのブログには「アクセス解析」なる機能が追加されている。訪問者がどのページから入り込んできたのかがわかる「ページ別」に、どの時間帯に何人の訪問者が訪ねてきたのかがわかる「時間別」など、ブログに訪問した人の足跡を事細かに知ることができるようになった。

ちなみに6時から10時までのあいだでは55人のブロガーが訪問してくれているらしく、これは出勤してすぐにパソコンを立ち上げて読んでくれているんだなということだろう。朝っぱらから僕の独り言を読むという物好きな方たちの中に確実にあいつとあいつとあいつはいるよな、なんて想像してニンマリとなった。

誰が訪れているのかは当然のようにわかるはずもないのであくまでも想像の範疇を超えないにしても、こうした妄想は気分がいい。

昨日のブログでスッキリしたことに加えて、またひとつ書くことへのモチベーションが高まった気がしている。

さて書こう。

このブログもリニューアルされたこの時期は新しい環境に飛び込もうとする人たちで賑わっている。かく言う僕もそうだ。この4月から大学の先生になるわけで、ラグビーという男臭い世界から女子大の先生という艶やかな世界へと転身を図る。

なので期待と不安が入り交じる複雑な心境なのは敢えて言うまでもないことで、新しい環境に飛び込もうとする人たちはおそらく僕と似たり寄ったりの心境でやがては訪れる春を待っているんだろうと思う。

できもしないのに頭の中でシュミレーションを試みては不安に苛まれ、自分一人ではどうすることもできなくなって近しい友人に話をしては自信を回復させることの繰り返しを、繰り返している。まあたぶんそんなとこだろう。

僕がそうだから勝手にそう考えているだけなのだが。

2年間を共に過ごした僕たちM2は、先週の土曜日に修士論文の発表会を終えてあとは卒業を迎えるだけとなった。朝から夕方までびっしりと詰まった発表会のあとの「追いコン」では、何もかもを終えたことの解放感を共有しながら酒を飲んだ。

これから先生になる者、就職活動に励む者、お嫁に行く者などとともに侃々諤々の数時間となったわけだが、入学当初に僕が勝手に抱いていたイメージとはかけ離れた彼女たちの姿がそこにはあって、彼女たちのことをまるで兄貴のような気持ちで「ホンマに成長したよなあ」なんて感じることしきりであった。

僕が大学生の時はラグビーさえしておけばほとんど万事OKだった。

(今から思えば思い込んでいただけなんだけれど)

就職もラグビーでしたようなもので、だから就職活動をしたことがない。

社会に出るってことの自覚に欠けるままに社会に飛び出していったのだ。

社会に踏み出すことへの不安をぶつける場所としてグランドが存在していて、社会人になってもラグビーを続けることは決めていたから、心の拠り所となるそうした場所がこれからも存在し続けることの安心感は大きかった。

ラグビーがあったから学生と社会人の大きな隔たりを軽く跨ぐことができたのだろうと今では感じている。

僕にはラグビーがあった、と言うときのラグビーということばの意味を正確に表せば、それはすなわち「仲間がいる」ってことだ。

ラグビーが他のスポーツに比べて特別に優れているとは到底思えない。

19年も取り組んできたのだから愛着はあるし、ラグビーのおもしろさを語れと言われればなんぼでも語れるけれども、それがあまりに過ぎると惚気話になる。

惚気話は度が過ぎれば耳障りが悪くなる。エエ加減にしてくれと思う。

だから僕は「エエ加減」に惚気たいと思うわけで、他のスポーツに比べて優れた点だけを取り立てて強調するんじゃなくてもっと違う角度から語るべきなんじゃないかなと考えている。

それが「仲間がいる」ってことの文脈において語ることだと認識しているのだが、ここから先は今はうまく説明することができそうもないのでこの辺で切り上げる。

少し話が逸れたけれど、つまり僕には「仲間がいる」ということの実感があったからこそ社会に飛び出すことに躊躇することはなかったと思っているわけだ。

話を「追いコン」の場へ戻すと、大学院を卒業されて職員で働いておられるある先輩は、修士論文を書き上げたあとの達成感が格別であったことを話してくれて、それを聞いた僕たちは何も言わずに「うんうん」と頷くことができた。

一つのことを成し遂げ、成し遂げるための苦楽を必要以上の言葉を介することなく共感できるのは、仲間だからこそだ。少々クサい表現になりつつあることには目をつぶるとしても、とにかくそうなのだからしょうがない。

体制に迎合することなく、襲いかかってくるあらゆる「踏み絵」を踏むことなく、辿り着いたからこそわかり合える境地がある。

一回り近く年下の彼女たちの真っ直ぐなまなざしに触れて、彼女たちと同じ年の頃の僕はどうだったのかに思いを馳せてみれば、その思いの先には鼻を垂らしたガキんちょが立っていてただただ俯くしかなかったけれど、そのガキんちょの周りには少なくともたくさんの仲間がいた。

それでようやく「ああそうか、それがラグビーやったんや」と気づいた。

実は昨日も同じフィールドでともに戦った後輩と酒を飲み飯を食った。

彼の考え方とは似ても似つかないだろうと思いながらも抑えきれずに本音をぶつけたことがあって、それからしばらくは疎遠になったりもしたけれど結局のところはこうして話ができている。

面と向かって真っ当な話ができる。

それもやっぱり仲間だからなのだ。

彼もまた新しい環境へとその身を置こうとしており、彼の心には短いことばなんかで説明しようのないまるでマグマのように煮えたぎる想いがあったように感じた。

それにたっぷり感化されたがために今日はこのような内容になっているのだと思う。

仲間とはいつも一緒にいる必要なんてなく、その存在は心で感じるものだ。

この広い世界のどこかに自分と同じ意志を持って粛々と生きている仲間がいる。

この安心感を与え合う同志こそが「仲間」なのだと思う。

「そういやあいつどうしてんねやろ、元気にしてるんかなあ」

と思い出すようにしてふと頭に浮かぶ「あの人」が仲間なんだな、うん。

どの世界においても仲間をつくることは大切なはずなのに、今の社会ではその大切さが見落とされている気がしてならない。しかも意識的に。

メディアから垂れ流されている「あのことば」の影響を大きく受けているが故の成りゆきかもしれないが、だとすれば声高に否定しておかなくてはならない。

「自己責任論」なんてくそくらえだ!