平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「限りなくズルに近い休み」と「後ろめたさ」

これまでに何度もこのブログに書き続けていたが、僕は10月の風を感じると身体がラグビー仕様になる。ふと脳裏をかすめる情景が大学時代に宝が池球技場に向かう道中だったり、社会人になって芦屋竹園ホテルから花園ラグビー場に向かうバスで音楽を聴きながらぼーっと眺める風景だったり、この時期の季節感を感じるとともにそんな場面場面が浮かんでくる。今日も、窓を全開にして走る43号線でそうした光景が浮かんできて、いつかの自分のありし姿に心が否応なく向かっていた。しかしそれは引退後初のラグビーシーズンを迎えた昨年とはまた違った心模様で、少なくとも1年分だけはラグビーから遠ざかったんかなあと寂しくもあり懐かしくもありながら、でもそうして変化しつつある自分への安堵感もあってなんだか不思議な気持ちでハンドルを握っていた。少し風邪気味なのもそんなセンチメンタルな心模様になるのを後押ししたのだろう。

すっかりウィークリーなブログへとなりつつある。書けない言い訳は探せばいくらでもみつかるので、時間的な忙しさについては敢えて書かないでおく。というのは、自分の忙しさについて事細かに書くことが、さらに自分の忙しさに拍車をかけるような気がするからである。ただでさえバタバタとしているのに、そのバタバタにくっきりとしたことばで縁取りして忙しさを際立たせることはないだろう。しかしながら、「こんなことやってまんねん」と誰かに知ってもらいたい気持ちもあるわけで、だから忙しさについてはあくまでも小出しにして書いていこうかなあなんて思っている。

それに、僕の周りにいてる人はもっともっと忙しい生活を送っている(と思われる)。なので、これしきのスケジュールで根をあげるわけにはいかないぞと、自分自身を鼓舞する意味でも忙しさについての詳細を書くわけにはいかない。というような前のめりな気持ちの反面、すっかりと休んでしまいたい欲求には逆らえず、限りなくズルに近い休みなんかを人知れず満喫することもごくたまにある。矛盾するのだけれど、この「限りなくズルに近い休み」を現実社会からの前向きな逃亡という風に僕の中では位置づけている。

ただ突っ立っているだけでたくさんの情報が浴びせられるような社会では、まずはそこから離れることが必要である。街中にはiPodなんかで耳を塞いで「私は何も見てません」的表情でスタスタと歩いている人を結構見かけるけれど、そうした人たちは自分の意思に関係なく襲いかかってくる有象無象の情報を自らの本能でシャットアウトしているのではないだろうか。感受性のスイッチをオフにすることによって都市社会の中を傷つかずに歩きまわることができる。無意識にそう察知しているように僕には見受けられる。

それでも僕たちは社会の中で生きていかざるを得ない。僕はたくさんの人たちに支えられながら生きざるを得ないのであり、なにがしかの方法で誰かを支えながら生きざるを得ないのである。そうしたお互いの結びつきの中では、何か具体的に誰かの役に立つことをしなくてもただそこでまっとうに暮らすことが何より求められると思われる。「まっとうに」なんて書くと少々大げさに過ぎるが、つまりは身の丈に合った生き方をすればいいのであり、大勢の人をけむに巻くようにして得られる権力や権威を求めるのでもなく、すべての可能性が秘められているとの誤解を生むお金を求めるのでもない、ただ周りの人たちとともに笑い合えるように信念を持って生きるということではないだろうか。「信念を持って生きる」ということはほとんど誰しもが理解しているのだろうが、その実践がこれまたとてつもなく難しかったりするわけであるのだが。

でもこれほどまでにお金という基準で測られるようになった社会では、「信念」は使い古された過去のものになりつつあると言えるかもしれない。「信念」というのは、誰しもが理解に至るような明確な根拠を持ってしては語れない。とにかくそうとしか言いようがない、という仕方で私の中に根付いていくものである。バーンと言い切ったことに対して、「明確な根拠を示せ」と言われたところでそんなものはあるはずもない。いやあるけれども上手くことばにはできない。そこで「科学的にはどうなんだ」という伝家の宝刀を抜かれたらひとたまりもない。その意味を深く知ろうともせずにやたらめったらに「科学的」ということばを振りかざすそうした連中がいるからには、彼らに対しての防御線を張り、反撃態勢を作っておかなくてはならない。たとえ周りを囲まれて囁かれ続けたとしても心が浸食されないように準備しておく必要があるのだ、今の社会では。

それでもやはり孤軍奮闘するのには限界がある。だから同志が集ってやんわりと浸食されつつある自らの心を癒したくもなるし、ときには「限りなくズルに近い休み」に身を浸してリフレッシュしたくなる。

正当な理由のある休みは社会の中に組み込まれているものだ。しかし、「限りなくズルに近い休み」は、休む本人以外の人たちにとっては予定外である。時と場合によっては迷惑がかかることになるだろう。だから休む時のマナーしては「ちょっとだけの迷惑」に留めておく必要があるが、この「ちょっとだけの迷惑」は社会に歪を生み出す。この歪が実のところ人と人を結びつけるものになり得るのであり、休んだ本人がどうしても感じることになる「後ろめたさ」はさらなる活力や意欲を生む。たとえわずかであっても意図的な行為には人と人をつなぐ作用が働き、とくに「後ろめたさ」という感情で人と人はつながるのではないかと思うのだ(意図が作為になれば人と人を遠ざけることになるけれど)。

うん、やっぱりそうだ。

なかなか更新できずにいたことの「後ろめたさ」があったからこそこうした内容のブログを書くことができたわけだからね。隠しごとがある人には「後ろめたさ」が芽生える。すっかり忘れてしまったけれど、昔読んだ本の中で「隠しごとをするのが大人への第一歩」と書いてあったことをふと思い出した。なるほどね。