平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

遠慮と謙虚。

読みかけの本を読んだりしながら知らず知らずのうちにあれこれ考えることは、
ここ数年のあいだですっかり習慣となった。
具体的に何をというわけでなく漠然とじっくり考える時間は、
いつのまにか僕にとってなくてはならない時間となった。
取り立てて早急に解決しなくていいあれこれについて考えているあいだは、
放射的に考えが広がっていくのだがそれがまた気持ちいいのである。
一つの答えを導かなくてもよいというほんわかした安心感は、
いついかなる状態の時であっても自由というものを実感させてくれる。
僕にはどんなことでもできるんじゃないだろうかというような気になってくる。

とは言ってもいつもがいつもそう言うわけではなく、もがきながらそしてのたうち回りながら考えているときのあの煮え切ら無さの不快感はなかなかのものだ。
答えが出ないことへのもどかしさではなくて、
「自分」が定まらないことへの不安感というかなんというか。

だからといって「自分」が定まることってどういう意味だろうと考えてみたところでますます困惑するばかりである。
なぜなら「自分」が静かに定まることなんてありえないと思うからである。
ブサイクな正義感を引っさげて渦中に首を突っ込んで苦しいと悶えるという一つの人格に「自分」が集約されることを想像してみれば、相当キツい。
あれもイヤこれもイヤと我が儘に過ぎるどこまでも怠惰な一つの人格に「自分」が集約されることを想像してみれば、相当サムい。

おー、キツ。おー、サム。

それでもときに「定まった」という実感が訪れるのは、あんな自分もこんな自分もみんな「自分」なんだという「勘違い」をするからだろう。ともすればこれでいいのかと思ってしまうほどの、この「勘違い」こそがまさに自分が定まるという感覚だと思う。
真面目な部分もケチな部分もアホな部分も鈍くさい部分も、みーんなひっくるめて「自分」なのだよ。
だからそんな風に複雑怪奇で曖昧模糊な「自分」をそのままの等身大で認めてしまうことでグッと肩の荷が降りて楽になる。

と僕は思う。

思い返してみれば ここ1ヶ月くらいはそんな風にじっくりと考える時間が、なかった。
目の前にあるやるべきことに手をつけるだけで精一杯だった。
だからなのか、今は「自分」が定まりつつあると実感している。
流れゆく時間の中にどっぷりと浸かりながら他者とのやりとりをする中で、
「自分」というものは定まっていくものなのだとすれば、
「自分」というものの正体がますますわからなくなってくる。
掴もうとしても掴むことができない「自分」は、まるでうなぎのようである。

それでも確実に言えることは、「自分」は他者による承認が必要だということである。
「自分」の正体に触れるためには自分以外の誰か(もしくは何か)が必要なのだ。
ただこの自分以外の誰か(もしくは何か)というのがまたやっかいなわけで、なぜやっかいなのかというと、他者による承認の如何によって様々な様態の「自分」が立ち上がるというところにある。

「どこまでを決めてどこまでを決めないでおいておくか」

とても、難しい。