平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「ケガとのつき合い方」身体観測第48回目。

大学教員としての生活が始まっている。初回の講義では学生たちに自己紹介をしてもらい、ジュニアスポーツ教育学科の学生ということで、これまでのスポーツ歴についても語ってもらった。

自己紹介を聞きながらに一つ二つ質問する中で気づいたことは、ケガに対する興味や関心の高さである。一通り自己紹介を終えた後になって投げかけられた質問も「今までどんなケガをしたことがありますか?」という内容で、中には膝のケガのためにそのスポーツを辞める決意を固めた学生もいて、自らに切実なものとしてのケガが生み出す心の葛藤に向き合い、それを乗り越えようとしている姿に思わず切なくなった。

今日では医学の発達やリハビリテーション手法の進化に伴って、ケガはマネジメントできるものになりつつある。ケガは「治る」ものから「治す」ものに、スポーツ界での意識は変わりつつある。

こうした意識の変化には大いなる疑問を抱かざるを得ないとしても、こうした時代の趨勢が医者やトレーナーの発言に重みをもたせることだけは確かであろう。「治す」となれば専門的な知識が必要になる。そのため医者やトレーナーは、スポーツ選手にとってはパフォーマンスの向上にもつながるほど大切な存在になりうる。

だが、本当にケガは「治す」ことができるものなのだろうか。

当然ながらケガによる影響は体だけではなく心にも及ぶ。プレイできない自分への苛立ち。友だちや指導者からの期待に添えないことのもどかしさ。様々な心の葛藤がケガにはもれなくついてくる。ケガした瞬間に感じた痛みを身体が覚えていて同じような状況を無意識に避けるということも起こる。たとえ患部が治ったとしても、心に恐怖心がこびりついたままでは完治したとはいえない。

「治す」ために手を尽くした後は、「治る」まで何もせずにじっくり待つことも治療の一つではないだろうか。

<08/04/22毎日新聞掲載分>