平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

病み上がりの「健康」考。

先週は1週間を通じて風邪を引いていたのだけれど、この週末ですっかりと回復。

頭もすっきりしたことで本もスラスラ読めるようになり、

やっぱり健康でいることが何より大切なことに今さらながら強く実感。

風邪を引いて健康の有り難さを実感する。

心身ともに健やかなる状態にこれっぽっちの手応えを感じないことから思えば、

当然といえば当然のことだ。

「なーんにもすることがなく退屈している」状態が、

「なーんにもすることがない」と思い込むことで退屈を呼び寄せているに過ぎないことに気がつけば、この世から「退屈」はなくなる。

実際にはなくならないにしても、主観的にはなくなってしまう。

だから「なくなる」と言い切ってもいいと思われるがどうだろう。

退屈は、刺激を求める心の動きに付随して生まれる感情でもある。

「さしあたってなにもすることがない」状態を「退屈」だと読み替えてしまうから、刺激を求めてしまうのである。

「なにもすることがない」と言ったって、

私たちの心臓は動いているし、血液は体内を流れ続けている。

「なにもしていない」ように見えても、

私たちの身体は生きるためにフル稼働している。

「なにもすることがない」と思考を巡らせてもいる。

何より健康であるからこそ「なにもすることがない」のである。

腎臓が悪ければ透析を行わなければならないし、

風邪を引いていれば薬を飲んでぐっすり眠らなければならない。

必然的にやるべきことが目の前にポンポンと出てくるのは、

何かしらの病を患っているからである。

時間という流れの中にまったく同調することができていればその流れに身を委ねているだけでよく、「すべきだ」などと考えることすらも必要ないのだ。

だがしかし、私たちはその流れに抵抗するように自らを表現しようとする。

僕は僕だ、ということをわかってもらうために声を上げる。

そのとき、その声の大きさに応じた「すべきこと」が自らに課される。

いつもいつも健康で「なーんにもすることがない」状態では、

生きていくことはできない。

ちょっとした、もしくは割と大きめの病を抱えながらでしか

私たちは生きていかれない。

そうでないと自分が誰なのかがわからなくなってしまって、

それこそが病となって自らに降りかかってくることになる。

健康であり続けることが病になることもある。

なんともややこしいが、そういうことだ。

ちょっとだけ病を患うために私たちはたばこもお酒も夜更かしもやめられないでいるのではないのかと、そんなことを思ったりもする。

ときどき無性にカップラーメンが食べたくなる衝動もまた、

そうした欲求によるものではないのかとも思う。

一見したところ無駄な逸脱行為が健康維持につながる。

健康状態は、揺さぶられることで初めて意識の中に表れてくる。

健康か健康でないのかの境界線なんてないのだ(たぶん)。

あってないようなものが健康であって、

でも今の自分はとても健康だと思っているのがこれまたオモシロい。