『ねじまき鳥クロニクル』と一冊の本について。
さっそく読み始めた『ねじまき鳥クロニクル』。
まだ「第一部泥棒かささぎ編」の途中なんだけど、
なんとも奇妙な感じを覚えている。
奇妙な感じというのはどこか懐かしさに似たような感じというのか、
若かりし頃に読んだことがあるかのような「既視感」を覚えるのである。
ただ忘れているだけでもしかして読んでいたのかもしれないと思い、
注意深く記憶の彼方に意識を飛ばしてみたが、
やっぱり読んだ記憶はどこにも見あたらない。
うーん、何とも不思議だ。
まだ読み始めたばかりのうちにあれこれ書いてしまうと、これから味わえるであろう楽しみが削がれてしまいそうな気がするのでここらでやめておくけれど、とにかくそんな感じで読み進めているのである。
大学の研究室であれこれすることに身体が慣れてきたせいか、
まだまだがらんとしている本棚に立てかけてある1冊の本に目が留まって
そのままその本を開いて読み始めてみた。
いわゆる積ん読本の1冊である。
ページを開いてみると約100頁ほど読み散らかしていた形跡が残っていて、
付箋を貼ったりページの端を折り曲げたりしている。
「そうそう、確かに読んだぞ」ということがフラッシュバックしてきて、
それと同時に、その時に感じた感動も奥底から湧いてきた。
「確かかなり面白かったはずだ」ということだけはわかるのだけれど、
詳しい内容についてはほとんど定かではない。
レヴィ=ストロースの思想に大きく影響を受けた書物であることだけは覚えていて、なぜそんなことを覚えていたのかというと、当時に読み進めていた『現代思想のパフォーマンス 』の中でレヴィ=ストロースという名前が出てきていたからだろうと思われる。
書物をまたがって同じ学者の名前を目にすれば、自ずと印象に残る。
研究室の外からはラケットでボールを打ち返す音が聞こえ、
扉の向こう側ではバスケットボールをつく音とバレー部のかけ声が谺する中で、
ひたすらにことばをなぞっていく。
デシベル的には騒々しい中なのにそんなことなどお構いなしに集中できたし、あまりの静けさに僕の周りだけ時間の流れが止まったのではないかと思ったほど、読むことにとらわれた。
何とも久しぶりにこうした感覚を味わったのであった。
結論から言えば、得体の知れない光的なものが脳天から足先まで貫いたような感覚になり、これから僕が学者として進むべき道の両脇にある街灯に明かりが灯ったかのような心境になった。
何と言ったらいいのか、とにかく感動し、感銘を受けた。
こうした類の感動や感銘は、ことばにすればするほど嘘くさくなって、
僕ではない誰かには伝わるべきものではないことは百も承知している。
だから、本の名前や著者の名前については今はまだ書かずにおいておくけれど、
とにかくそういうことなのだ。
以前に読んでいたはずなのにその時は今回ほど感銘を受けず、改めて読み直してみたときにその思想の波にのまれてしまったというのはどういう現象なのかというと、「2年前の僕」には著者の思想の深さを受容することができないほど未熟だったけれど、「今の僕」は2年前よりも少しだけ思想を理解できるようになったということである。
書物に書かれてある内容が同じであるからには、
「あの時の僕」と「今の僕」は確実に変わったといってもいいだろう。
こうした変化をもって成長というのかは別問題として、
とにかく僕が変わり続けていることだけは確かなようである。
この実感は、他の何ものにも代え難いほどの多幸感をもたらしてくれる。
さて、今日はあいにくの雨。
何かを始める日に雨が降るというのは縁起がいいと誰かに聞いたことがある。
今日から5週間に渡ってSCIXと神戸親和女子大学共催の文化講座が、
梅田にある毎日インテシオ4階大会議室にて行われます。
(講座についての詳しいインフォメーションはこちらをクリック)
興味のある方はぜひ申し込みをお願いいたします。
講座の様子は毎日新聞の紙面にて紹介されますので、
そちらの方も是非ご覧下さい。
(掲載日は6/2、10、16、23、30となります)
それではまた。