平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「ベテランの苦悩」身体観測第49回目。

スポーツをやっていればやがては引退する時期が訪れる。競技の特性によってその時期はまちまちだとしても、引退は必ずやってくる。「生涯現役」などと嘯いてみたところで老化による競技力の低下に抗えるはずもなく、思い込みとは裏腹に身体はゆっくり熟していくのである。

練習に加えてウエイトトレーニングを行い、プロテインサプリメントを摂取し、睡眠時間まで管理しながら日々を生活しているのが、昨今のスポーツ選手である。体調管理を過度に徹底することの是非は置いておくにしても、これほどのケアを自らの身体に課していればいやでも微細な変化に気が付いてしまう。これまでのプレーができなくなったという客観的な現象としての衰えではなく、重さや怠さが身の回りにへばりついているかのような感覚としての主観的な衰えを、敏感に察知してしまうのである。

こうした衰えを察知してから、すなわちベテランと呼ばれるようになってからどのように振る舞うのかで、スポーツ選手の真価が問われると私は思う。

どのスポーツでも勢いのあるチームでは若手選手が活き活きとプレーしていることが多いが、それを縁の下で支えているのは紛れもなくベテランの存在である。たとえ試合に出られなくても黙々とプレーするベテランがいれば、チームに一本の芯が通る。しかし、自らの衰えを悟った上でプレーの熟達に努めながら、若手が伸び伸びとプレーできるようなチーム環境に配慮するのは、言葉で言うほど簡単なことではない。かつてのようにまた試合に出て華々しくプレーしたいと切望すればするほど、つい若手の存在が目の上のたんこぶに感じる。そして、一瞬でもそう感じた己の器量の狭さに落ち込む。こうした葛藤は引退するまで容赦なく続く。

引退は、スポーツ選手にとって大きな儀式である。だからこそ、引退を迎えに行きつつあるベテランのプレーには目を見張るものがある。

<08/05/20 毎日新聞掲載>