ラクロス観戦とたこ焼き、そして【大三元】。
先週の土曜日はSCIX文化講座が行われた。
講師は平尾誠二氏。
神戸親和女子大学との共催ということだったので、
ジュニアスポーツ教育学科の先生方も顔を出されて、盛況のうちに終わる。
約1時間の講演が終わると後半の30分は質疑応答の時間があり、
そこでの司会進行を仰せつかる。
終始あたふたとした司会進行。
終わった後にそんな自らを顧みてさらにあたふた。ふう。
次の日の日曜日は曇り空の中を電車に揺られて鶴見緑地まで。
大阪→京橋→鶴見緑地という乗り換え満載の道中なのに、
どこかのんびりとした心持ちになれたのはどうしてだろうか。
車での移動よりも確実に電車の方がのんびりできる気がする。
満員電車だとそうはいかないけれど。
そうして鶴見緑地まで足を伸ばしたのはラクロスの試合を見るためである。
この4月にラクロス部の顧問になってから初めての生観戦に、心が踊るもどこか緊張している自分がいたのはラクロス部顧問としての自覚が芽生えてきたからか。
コーチではなく顧問なので練習に出なければいけないという縛りはないんだけれど、なるべく週に1回はグランドに出るようにしている。
「出なくてもよい」ということになれば「出たくなる」のが人のサガで、三度の飯よりも(というのは言い過ぎだけれど)スポーツ好きの僕としては「ただの顧問」でいられるはずもなく、ラクロスというスポーツをほとんど知らなくても何かアドバイスできることはないだろうかというアンテナを張りながら彼女たちの走り回る姿に視線を向けているのである。
スポーツには様々な分類の仕方がある中で、「ゴール型」という分け方がある。
「ゴール型」に分類されるのはたとえばどんな競技かというと、ラグビー、サッカー、バスケット、ハンドボール、ラクロス、アイスホッケーなどである。
「ゴールを決める」という共通項による分類なのでそう呼ばれているのだが、僕個人としては「ターンオーバー」があるかないかという仕方で区別している。
なぜならば、攻守の切り替えに対して瞬時に反応できるかどうかが問われる競技とそうでない競技のあいだには、選手に求められる能力に本質的な違いがあると考えるからである。
「ゴール型」では、自分たちのミスがきっかけとなって相手のチャンスが「間髪入れずに」始まる。自らの犯したミスに落ち込んでいるヒマなどなく、すぐに防御の態勢を整えなくてはならない。
つまり、いざ試合が始まってしまえば立ち止まって考える時間などないのである。
テニスや卓球、バレーボールなどの「ネット型」競技には
「ターンオーバー」がない。
攻めている途中にボールを奪われていきなり守らなければならなくなるという状況は、決して訪れない。
それは野球も然りである。3アウトまでは確実に攻めることができる。
両者ともに、1ストロークごと、1球ごとに思考することが可能であるということができる。
すなわち、「ネット型」&野球に必要とされるのが「静的な思考」であり、「ゴール型」に必要とされるのが「動的な思考」なのである。
じゃあアメリカンフットボールはどうなのかというと、
これはそれらの中間に位置しているものと考えられる。
アタックとディフェンスが明確に区別されている反面、インターセプトが発生するとプレーが途切れるまでディフェンスメンバーで攻める。
「ゴール型」の要素も「ネット型」&野球の要素も含まれている。
ちなみに、僕の中ではアメフトと野球を「アメリカ型」と称して、「ゴール型」とも「ネット型」とも競技性が異なる者としてカテゴライズしているが、それは選手としての実感がそれぞれのカテゴリーによって違う種類のものであるという確信から来ているものと思われる。
話を戻して、ラクロスである。
つまり、ラクロスもラグビーと同じく「ゴール型」の競技としてカテゴライズされるわけであり、身体の使い方や戦術の練り方などに共通する部分がある。
ボールキャリアの動向を気にしながら自らのマークマンを抑え込むという仕方(三角形をつくる意識)はほぼ同じであるし、その際に求められる「周辺視」についても共通している。
また、自分のマークをいかにして外すか、といった技術や考え方については、クロスを持っているかいないかの違いと体当たりがあるかないかの違いだけで、ほぼ同じであると言い切っても差し支えない。
そういう視点で見ていくとたくさんの発見があってとてもオモローなのである。
そして何よりも僕をラクロスに対して意欲的にさせてくれるのが、
ラクロス部の彼女たちの真剣さである。
親和のラクロス部は、コーチを置くことなく練習から運営、そして新人の育成までを学生主導で行ってきたという伝統がある。
練習メニューの合間に集まったときには
「今のはもっとこうした方がいいんじゃないか」
「あれは私のミスだから次からは気をつける」
「○○さんの走るコースがどうたらこうたら…」
などと、学生たち各々が積極的に意見を言い合っている。
そして、とにかく人の話をよく聴く。最後まで聴く。
ラクロスにおいてまったく門外漢の僕に対しても、
これでもかとばかりに耳を傾けてくれる。
そんな真剣さに触れると、こっちとしても真剣になってしまう。
試合結果は11対4で勝利。
結果から見れば楽勝には違いないけれど、
その内容について彼女たちは満足していないようであった。
うん、その真剣さがとてもよい。
そんな彼女たちに向かってついあれもこれもいいたくなってしまう気持ちを抑え込むのが必死である。
僕にとってはスポーツのあり方について考えさせてくれるところである。
そんなところに関わることができていることをホントにうれしく思う。
なんてことを心に抱きながら鶴見緑地を後にした。
高校時代にウロチョロしていた京橋が妙に懐かしくてしばらくウロウロ。
そのうちに、母親が仕事帰りに買って帰ってくることが多かった京阪モール地下街で売っているたこ焼きのことをふと思い出して、そのままエスカレーターに乗る。
4席ほどしかないカウンターに座って懐かしの味に舌鼓を打っていると、ほどなくセンチメンタルな気分に。
あれから10数年経っているはずなのにあの時のまんまの味でメチャ旨い。
そういえば数日前にタケナカから【大三元】レポートが届いていて、そのメールにはあと5年ほどで【大三元】は閉める予定らしいと書いてあった。
どんどん新しくなっていくのはいいことなのかもしれないけれど、幼い頃に親しんだ味が消えていくのはやっぱりどこか悲しく寂しいものだ。
ラクロス観戦後のあの日、エスカレーターを降りてすぐには見つけられなかったたこ焼き屋を、買い物しているおばちゃんおっちゃんをかき分けて歩き回った挙げ句にようやく見つけたときのあの安堵感は、何とも言えなかった。
そんな感覚が味わえなくなるというのはやっぱり寂しい。
個人史的な文脈における「旨さ」はその人ならではのものでしかない。
だからなくなるっていうのはつらいなあ。ホンマに。