平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

メガネ外しの街歩き。

目まぐるしく時間が流れている。

と感じるのはこうして家にひとりでいるときである。

特に何もすべきことがなく読みかけの本を開いたり、ハードディスクに録りっぱなしにしてある映像を物色したり、うたた寝したりできるときになって、初めて日々の忙しさが実感として意識化される。

どんなに忙しくてもいざ一日が始まってしまえばいつの間にか終わっている。

そして、少しだけ重く感じるカラダへの実感と、何かに引きずられている心とが相まった「疲れ」が、家に着くや否やそっと押し寄せてくる。

いや、正確に言うと、帰路につこうと乗り込んだ車の中ですでにその「疲れ」の徴候はある。「一人になった」、つまり誰の目にも触れていないはずだという実感を感じれば、抑圧されていた何かは少しずつ開放されていくのだろう。

最近メガネを外してコンタクトレンズもつけずに街を歩くことがとても心地よい。

僕はド近眼なので、メガネもコンタクトもなしではでこぼこ道を歩くことすらできない。幸い、街にはでこぼこ道はほとんど皆無なのでそんな心配はしなくてもいいのだが。

電車のホームにただ立っていても次の電車が快速なのか新快速なのかが一見するだけではわからず、電光掲示板の近くまで歩いていってこれでもかと目を細めて凝視しなければわからない。

それほど見えないものだから、

もちろんすれ違った人の顔など認識できるはずもない。

でも最近はこの不便さに開放感を感じている。

街中でたくさんの人に囲まれながら歩いていても誰が誰だかよくわからない。

僕の目には、大まかに「男」と「女」と「幼い子ども」の3パターンに識別されたぼんやりとした動くものにしか映らないのである。

なので、服の色や歩き方やなんやかんやで「男」を「女」に、「女」を「男」に間違えて認識していることも多々あるはずだが、そんな間違いは僕にとってはあまり大きな問題ではないし、そもそも見えないのだから気づくはずもない

とにかく周りでウヨウヨと動いているようにしか、僕には見えない。

それはつまり、周りからの視線がなくなるということである。

いやいや、正確に言うとそうではない。

たとえば元町商店街を歩いているとするならば、そこで僕とすれ違った何人かの人は間違いなく僕のことを見ているだろう。

もしかするとラグビー好きの人ならば僕が元選手であることを知っていて、好意的な視線を向けてくれていることもあるかもしれない。

あまりそういうことは頻繁に起こらないにしてもおそらくはあると思う。

視線はあるんだけれども、その視線に僕は気付かないでいられるのである。

もし僕に一般的な視力があれば

周りに対して積極的に視線を向けることがしばしばある。

「おっ、キレイやん」と、髪を揺らせながら背筋を伸ばして颯爽と歩く女性に意識をとられることは、割と頻繁にある。

子どもがよたよた歩いている様子や無邪気に笑っている姿には、いつのまにかそちらに目がいっている。

こうした視線のやりとりがあると、有無を言わさずその瞬間に僕の心はその人に向く。意識とは違ったところで勝手に向いてしまう。

そうした意識の動き事態が特に煩わしい行為ということではないのだけれど、ときにそれを煩わしく感じてしまう心境になるということである。

「こっちだって見いひんから、そっちも見んとって」と自分勝手な願いを叶えてくれるのが、メガネ外しの街歩きである。

全く一人になるのはちょっと寂しいから、わざわざ人がたくさんいる街に足を運んでメガネを外して歩くと、なんだか妙に落ち着くのである。

人間は社会的な動物だといわれる。

こう書くと何だか堅苦しい言い方になるけれど、ようするに人間は一人では生きていけないということである。

他者との共存には必要最小限の共感が求められる。あまりに全面的な共感は内向きな共同体を生み出して、排他的で暴力的な集団になる。

お互いを傷つけ合わないという同意さえあれば、考え方が180度違ったって同じ共同体の中で共存することができる。

「どこの誰でもないこの僕」という唯一無二性を感じたい自分と、共同体の成員として振る舞う自分との間には、必ず齟齬がある。

この齟齬を、齟齬であると認めるところから「生きる」が始まる。

たぶん僕はその齟齬の中でもがいている最中なんだろうなと、自分の行動を顧みながらこうして書いてみて気づいた。

「見ていて欲しいけれど放っておいて欲しい」

「放っておいて欲しいけれど見ていて欲しい」

メガネを外して歩くことに悦を感じているのは、

おそらくこんな心理の表れなんだろうな。たぶん。

人と人との距離感というものはとっても微妙なものであって、心地よく感じる距離感は一人一人が違う感覚や考え方で計っている。

もしかすると僕は、今、社会に対しての距離感を図りかねているのかもしれない。