平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「引退」したということ。

とっても快晴である。
さらさらとした風心地がとてもすがすがしい。
研究室をさらりと通り抜ける風は、
部屋の隅々にまで快適さを充満させてくれている。ような気がする。
今が梅雨時期真っ最中であるなどとは思いもつかないほど、晴れだ。

それにしても書けない日々が続いている。
思い返せば「書く」ってことにちょっとした違和感を感じたのがたしか昨年の2月頃だから、かれこれもう1年以上は「書けない、書けない」と自覚していることになる。そんな状態で書くものだから当然のように「書かれたもの」に満足できるはずもない。「書かれたもの」を読み返すたびに、どこぞの誰かが書いたもののような感覚を覚えて、深い徒労感に襲われる。

「書けない、書けない」という自覚が芽生えてからすぐの頃は、この徒労感のあまりの深さに、せっかく書いた文章を削除して更新を断念することもしばしばあったのだけれど、そのうちそうした徒労感にも慣れてきて(人間ってホントに何にでも慣れるものだなと思う。だからこそ環境の変化は怖い)、「えーい」と思い切って更新するようになった。
「そのうちなんとかなーるだーろーうー」なんて頭の中で口ずさんでるうちになんとかなるだろうと、けっこう本気で思っていたのだけれど、1年以上経過した今になってもそうはならずに心のどこかで「手ごたえのなさ」を感じている。うーん。

文章を書いた後に徒労感を誘発するようになったのはなんでやろかと、この1年余りを注意深く振り返ってみると、あることに気がついた。
そのあることとは「現役引退」なのだ。
「引退」はスポーツ選手にとっての大イベントであり、そんな大きなイベントに改めて気づいてそれが書けないことの理由であったとみなすことは、あまりに馬鹿げていると笑う人がいるかもしれないけれど、本人にとっては大真面目な気づきなのである。

そうなんだよな、オレって引退したんだよな。うん。

ラグビー選手として日々を過ごしていた頃ははるか昔のことである、という自覚が今の僕にはある。そうした自覚は、現役時代の最後2シーズンをケガの回復に努めることに終始していたという経験が、そう感じさせるのだろうと思われる。実質のところ3年前から僕はまともにラグビーをしていないのだから、あの現役時代をはるか昔に感じるのは当然かもしれない。記憶が時間の経過とともに徐々に薄れていくのだとすれば、それは自然の成り行きでもある。

でもさ、たとえ実質的にラグビーができなかったとしても、僕自身が「ラグビー選手」として自己をアイデンティファイしていたのは紛れもないことで、実戦の場から離れゆかなければならない気配を感じながらであってもグランドに立つことができたあの安心感は、やっぱり大きいものなんだよなー。

全体練習を横目に見ながら個人で練習していれば、それなりの疎外感が心に去来するのだけれど、「ラグビー選手」であるという土台はそれほど揺らぐものではない。
日々の生活はラグビー中心に動いており、もう何年も続けている生活リズムはきちんと保たれていたのだから、僕の身体はそれほどまでにストレスを受けていたわけではないだろう。と今では思う。
練習も試合も満足に行えないという現実は、僕に大きな喪失感を与えたのは確かである。でも、何かを喪失したことの実感としての「喪失感」は、僕という人間の自己の核心から少し離れたところにあったように思うのである。

「満足にプレーできないこと」は自己の一部分の「喪失」であって、それが全体に及ぶことはないほどにわずかなものだった。これはもちろん、時間がたったからこそ感じられることかもしれない可能性を考慮に入れての、僕としての結論ではある。

たとえ「満足にプレーできなくなった」にしても、僕がラグビー選手であることのアイデンティティはなんら崩れることはない。揺れるかもしれないが、崩れはしない。いや、病を抱えた身体と向き合うことによって僕が「ラグビー選手」であることのアイデンティティはむしろ強化されるだろう。不自由な身体を抱え込んでリハビリに励み、身体についての研究に没頭できたのは、ふたたび「ラグビー選手」としてグランドに立つことを目指していたからである。復帰を目指していた時期はより深くラグビーとコミットしている実感を得ることができていた。

でも「引退」というのはそれとは違う。質的に大きく異なる。

社会的な認知を含めて現役のラグビー選手ではなくなるのだから、僕のアイデンティティそのものがごっそりと抜け落ちることになる。一部が喪失するのではなく、土台が底抜けするのである。

社会的な足場が外れれば自身の存在は宙に浮いてしまう。それまでは「ラグビー選手」という重しでつなぎ止められていた自己はふわふわと辺りを漂うことになる。
ちやほやもされてきて少々甘やかされてきた自己はそう簡単に落ち着くはずもなく、だからこそこの1年あまりのあいだは、自分の綴る言葉に違和感を覚えていたんじゃないだろうか。立ち位置の定まらない中で書いたものにどうしても実感が得られなかったというのが、この1年余りの間に感じていた徒労感の正体だろう。

決して失念していたわけでもないけれど記憶の片隅でひっそりと息を潜ませていた「引退」こそが、文章を書くということにじわじわと影響を及ぼしていたのではないかと、そう直感して書き始めたら、あれよあれよというまにこんなところにオチついた。
書いたものを読み返してみても、その真偽は当事者の僕としてもよくわからない。
いや当事者の僕だからよくわからないのかもしれない。

いずれにしてもまた一つ「引退」についての物語を編むことができた。
それは僕にとってものすごく好ましいことのように思われる。
またしばらく時間が経過すれば「引退」について語ることになると思われるが、今はこれ以上を語ることはできないし、たとえ語ることができたにしても語らないだろう。むやみやたらに何でもかんでも言葉に置き換えてしまうと、ものごとの熟成を妨げることになる。またいつの日かここで書いてみようと思っている。