平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「原初の形態?」身体観測第51回目。

 『人間が好き−アマゾン先住民からの伝言−』(長倉洋海)という写真集を開いてみると、インディオの生活風景が生々しく描写されているたくさんの写真が目に飛び込んできた。彼らは狩りをし、飲んで食べて歌って踊り、仲間とたくさんの言葉を交わしながら自然と同化するようにして生きている。ほとんど素っ裸の子どもたちが浮かべる屈託のない笑顔には思わず吸い込まれそうになり、死を迎え入れようとする老人の安らかな瞳に安穏を覚え、ダムの底に沈んだ村を見つめる若者のまっすぐなまなざしに背筋が伸びた。

 その中で、若者たちが丸太を担いで競い合っている一枚の写真にふと目が留まる。シャバンテ族は、村同志が対立したときには「丸太担ぎ競争」をして勝負を決めるのだという。ともすれば暴力的な争いに発展しかねない状況を、一つのゲームの勝敗に委ねて解決しようとする彼らの慣習を目にして、これはもしかしてスポーツの原始的な形態ではないのかと思わず想像を膨らませた。

 産業革命期に生まれた近代スポーツは、帝国主義によって世界に広まった。その語源からは「余暇の楽しみ」でしかなかったスポーツは、今日ではその域を超えて一つの産業にまで発展した。プロ選手は高額な年俸を手にするようになり、贔屓チームを応援するファンの熱狂振りは甚だしい。しかし、表面的な繕いがいかに派手になろうとも、本質的な部分で大きな変化を伴うことはない。近代スポーツにおける選手とファンの関係は、おらが村の勝利を願う村人たちと、周りの期待を一身に背負って戦う若き村人の関係に端を発しているのではないだろうか。

 「丸太担ぎ競争」で勝敗が決すれば、それ以上争うことはないという。暴力を避けるために行われていた競争がスポーツの起源だったとすれば、あまりに過熱する昨今のスポーツ事情には一考の余地があると思われるのだが。

<08/06/17毎日新聞掲載分>