平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

ベランダ越しのアヒルと増水。

目覚めてすぐ、2時限の体育の途中、そして今。
本日これで3度目の土砂降りを窓の外に眺めながら書き始めてみた
天気予報で聞いたことのある「局地的な豪雨」とはまさにこのような雨のことだろう。
こうして書きすすめるあいだにもさらに勢いを増してきた。
以前にも書いたけれど、僕は雨の時に家の中にいるのが好きである。
正確にいえば今は家ではなく大学の研究室にいるのだが、
僕にとっては同じことである。
いつも見慣れたテニスコートが水浸しになっても、雨とは無関係を装いながらパソコンのキーボードを叩いていられる、ってな状況はなんだか気持ちがよい。

雨の景色を眺めているときに必ず思い出すシーンがある。

僕が小学生の時。
外で遊びたい盛りの小学生だった僕は、
雨の降る日にはベランダ越しに見える公園脇の溝を眺めていた。
雨振りを苦々しく思いながら、
必ずと言っていいほど増水する溝の交差点に視線を合わせていた。

ときおり、通りすがる自動車が増水した水を跳ね上げる。
下校途中の小学生が長靴のまま増水地帯を強行突破していく。
そんな様子を家の中からこそっと観察するのが好きだった。

うちの前のその公園には池があり、けっこうな数のアヒルが住み着いていた。
中には仲間同士のつつき合いで後頭部がはげ上がったアヒルもいて、実際につついている現場も何度か目撃した。執拗にやる奴と一方的にやられる奴がいた。
野生の群れとしてたくましく生きていたのか、それとも町の公園の中で生きることのストレスからいじめが起きていたのか、そのあたりはよくわからないけれど、そんな様子もベランダ越しに見ることができた。

そんなアヒルたちも雨の日には木陰でじっとしている。
雨が上がるのを待っているかのように一つの場所を動かない。
ときおりブルブルとカラダを揺さぶって水滴を飛ばしながらじっと耐えている。ように見える。
いつもはガーガーうるさいアヒルも雨の日ばかりはおとなしい。

おそらく小学生の時は雨が恨めしくて仕方なかったはずである。
友達との約束がなくたって一人で壁当てをして遊べるほどとにかく外で遊ぶことが好きで、そして球技が大好きだったのだから、雨はまさに大嫌いだったはずなのに、雨の景色を眺めながら蘇ってくるこうした記憶の数々は、なんだかとても心地がよい。
なんでなんやろうと考えてみたところで、なんだかよくわからない。

「外遊びが好きだったから雨は好ましくなかったはずだ」という論理的な思考よりも、「雨振りの日にぼけーっと眺めていたあの時に感じていたもの」という感覚的な記憶の方がより印象深く心の奥底に沈殿しているということだろうか。
ならばこれは意識と無意識の問題になろう。
幼き頃の心は雨の景色を情感的にとらえていたのには違いなく、だからこそ鮮明な記憶としていつでも引き出せるのであり、その時の情景が浮かび上がるたびに心には温かな感じが充満する。間違いない、僕は雨が好きだ。

と。

ひとりで物思いにふけっているあいだにすっかり雨は上がってしまった。
まるでスコールのように降った雨は、あの頃の雨とは少し違うような気がするけれど、というよりもたぶん違うのだろうけれど、それでも雨が降れば僕はいつもあの頃に戻ることができる。
戻りたいわけでも、戻りたくないわけでもないけれど、僕はあの頃に戻ることができる。

あの頃の情景がフラッシュバックする中でふと感じるのは、もしかして僕はあの頃から何一つ変わっていないんじゃないだろうかと、そんな気さえしてくる。
物事の考え方は変わっただろうし、変わってなければそれはそれで問題だろうけど、物事の感じ方に関してはおそらくほとんど同じなんじゃないかとも思えてくる。
溝が増水している様やじっとたたずむアヒルをボーっと眺めていたあの頃のまんま・・・。

なんて言ってるあいだに日も差し始めてきた。
そうなると、やっぱり晴れ間がいいと思う自分もいて、どっちが好きなのかよくわからんようになってきたりもするが、たぶんそんなもんなんだよな、天気って。
いや人間だからか。

さっ、研究、研究っと。