平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

わかるかなー、わかんねえだろうなー。

親しき友人たちと、豪快なことこの上なく笑った顔が印象的な料理人のお宅に上がり込んでの、世にも楽しげで豪勢なお食事会が開かれた。
このブログを読み続けておられる物好きな(そしてとても有難い)方々はすぐにピンときたと思われるが、ご想像されているとおり、王さん宅での食事会であった。
「皆が皆にご機嫌な会」がどのような会なのかについて、以前までは詳細に書いてきたけれど、第3回目となる今回からは事細かに書くのはやめておこうと思う。
というのは、その会がなぜに楽しいのかという理由があまりよくわからないからである。

もちろんのことながら感覚的に「楽しい」というのはいやというほど実感しているし、その理由についてもちょっと想像するだけで次々と浮かんできたりもする。
たとえば、
王さんのべらんめえ調で文脈を分断する一気呵成な切り込みとか、
声のトーンとその表情で場を瞬時に和ませてしまうご婦人とか、
マキちゃんの超感覚的にもかかわらず深みのある直観トークとか、どうとかああとか、
たぶん止めどなく永遠に羅列することができる。
でも、こうやって一つ一つをことばに置き換えてしまうことで、僕自身が感じている「楽しさ」を表現することはどだい無理なような気がするし、むしろその「楽しさ」が損なわれてしまうような気がしてキーボードを叩く指が止まってしまうのである。
ことばにする、ということでしか「ことばで語りえない領域にあるもの」を手繰り寄せることはできない。ということも、もちろん理解はしている。
ことばとは常に「言い足りない」か「言い過ぎるか」のどちらかである。
ということもわかっている。
ならば書けばいいじゃないかと、書くしかないじゃないかと思われるやもしれぬが、どうにもその辺りは今の僕にはうまく表現することができない。

「書かない」という断言がそもそもすでに「書いている」、すなわちことばに置き換えていることになるのだから、僕はこの会について「沈黙」しているわけでは決してない。
「もったいぶっている」という身振りそのものがすでにことばに置き換えられている、との解釈も成り立つだろう。
そもそも「もったいぶる」ことがなければ、会があったかどうか、そしてそれがどれだけ楽しげな会であったかということは、ブログの読者にとっては永遠に謎のままである。
だとすれば、「もったいぶりながら具体的には書かない」という身振りは、読者に対してその会の存在を知らしめることになる。そして、その会の「楽しさ」は、具体的に書かなかった分だけ読者の想像を駆り立てることにもなる。

つまりのところ、こうしただらだらと迂回しながら結局僕は会のことについて書いている。
いかに楽しかったのかについて、哲学的に小難しく考えている。
詳細を書くことなくアウトラインだけを準えている。

これは僕の独断的な憶測にしか過ぎないけれど、「感覚的なもの」(ここでは「楽しさ」)をその鮮度を落とさずに伝えるためには、こうした「迂回するような言い回し」しかないと思う。

映画監督が映画を通して何かを語るように、
小説家が小説を通して何かを表現するように、
「感覚的なもの」は、それを知れば知ろうと思うほどにどんどん具体性を失っていく。
なにより短い言葉で説明できないと考えるからこそ物語を編むわけであり、だからこそ物語のあちらこちらに「感覚的なもの」が散りばめられている。
それらを順序立てて一つずつ抽出する作業は、どうしたって「感覚的なもの」の鮮度を落とすことになる。「ことばで表現されたものとされなかったものに分たれる」という事実が、身体を通じての感覚から自らを遠ざけることになる。
だからといって、抽出作業をしないとなると、それは何一つことばに置き換えないということであるから、思考そのものができなくなる。

ではどうすればいいのか。

ことばを辿りながら紡ぎながら、伝えるべき「感覚的なもの」の周りをうろうろとする。
「ここやで」と言わんばかりにこれみよがしに「感覚的なもの」の周りをぶらつけば、歩きまわったその軌跡が「感覚的なもの」の輪郭を形成する。
「名指すこともなく名指す」というあり方が、「感覚的なもの」を伝達するための一つの方法だと思う理由はこの通りである。

つまりだ。

あの会の「楽しさ」を伝えようと躍起になればなるほど、どうしたって「もったいぶる」という身振りでしか表現できないことに気づかされる。とまあこういうことなのである。
ここまで読んでしまった方の多くは、あの会についてついついあれこれ想像しておられるだろうと思われる。

それがまさに狙いなのであった(と、僕も今気付いたばかりであるが)。