平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

誠実さや素直さと愚かしさ。

それにしても社会に出ればいろいろなことや人に遭遇するものである。

卓越した知性を備えた方に出合ってその知性のスケールの大きさに圧倒されたとしても、ある程度の時間が経てばまた違った種類の知性に出合い、そのスケールにぐうの音も出ないほどの感動を覚えるということがある。
どちらが上とか下とかではなくて、そうした知性同志がときに共鳴し合って身体が震えるということもある。
というか、既にあった。
そんな機会はそれほどないにしてもおそらくこれからも起こるだろう。
そうした方たちが語ることばの奥の奥には、
どこか似通ったものを感じることができる。
信念と呼ぶべきその何かは、明確にことばでアウトラインをなぞることができないほど曖昧だけれど、その気配は確実にこちらに伝わってくるもので、僕の心の中の壊れかけた部分を次々に修復してくれる。
やる気が起こり、意欲が湧く。

しかし、そんないいことばかりに出合うことはないのが現実でもある。

愚かしさや浅ましさを垣間見たときのあのゲンナリ感は、
やる気を根こそぎ刈り取っていく代物だ。
もしも「愚かしさ」の様態を並び立てたカタログがあるとすれば、今こうしている間にもどんどんページ数が増えていっているだろう。

人間というやつはちょっと気を許せばどんどんと悪くなるのだと思う。
ということは、自分の心の中を覗いてみれば誠に明らかなことだとわかる。
邪なことが次々と見つかってそんな自分が嫌になるけれども、
それがオレなんだと認めなければならないんだな、うん。
どうしても「正しいこと」に向かおうとする自分がどれだけの毒を周辺に撒き散らしているのかを考えたときに、寒気がするほど恐ろしくなるんだな、うん。

「そんな奴おらへんやろう」という憶測はあくまでも未熟な自分の憶測でしかなく、いい意味でも悪い意味でもそんな憶測は簡単に覆ることになる。
ていうか、覆らないとオモシロくも何ともない。
「愚かしさ」の一面を新たに見せつけられたときのあの虚脱感はできれば二度と味わいたくないけれども、「愚かしさ」のバラエティが増えれば「誠実さ」や「素直さ」に触れたときの感動はとてつもなく大きくなるから、それはそれで必要なのだろう。

必要?ホントか?
なんかようわからんくなってきたな。

まあ日々を生きていればいいことも悪いこともあるってことだろう。
人生楽ありゃ苦もあるさ、ってか。
苦は楽を大きくし、楽は苦を大きくする。

つまり、

雪の中でカラスを数えるのは簡単だ。ということなんだと思うな。

何だか今日はまとまらないな。うん?今日も、か。
でもこれで終わることにする。では御免。