平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

超絶的なボルトの走りから(長いよー)。

やっぱり強烈であった。
北京オリンピック男子200mは、たくさんのオリンピックウォッチャーが期待していたとおりの圧勝劇。いやー、すごかった。先のブログでは、「100mよりも200mに重きを置いている」ことがどれだけパフォーマンスに影響を及ぼすのかが楽しみだと書いたけれど、そんなちっぽけな僕の心配は水泡に帰した。ボルトが200mで負けることを期待していたわけではなかったので、「水泡に帰した」という表現は必ずしも正確ではないけれど、100mのときよりも確実に重くのしかかってくる重圧があったにもかかわらずそれをもろともせずに世界新記録を樹立したあの走りを目の当たりにしたら、あれこれ考えていたすべてのことが吹っ飛んでしまうというものである。

スタート前は相も変わらずおどけた仕草を見せていた。
何度も頭を触った後に眉毛に触れ、最後は矢を射るようなポーズをとる。「ナめてるよなあ」とにんまりせずにはいられないほどのおちゃらけぶりに、画面の前で胡座をかく僕はすっかり魅了されていた。この大舞台で、しかもこれまで自分が目標として日々練習に取り組んできた競技を目前にしての、この余裕。21歳の若さゆえの落ち着きかそれとも器の違いなのか。
とにもかくにも心が躍ってわくわくした。

すでにスタート前のこの時点ですでに勝負は決まっていたような気がする。
(もちろん今だから言えることなんだけれどもね)

200mという競技は100mと違って、見ていてちょっとわかりにくい部分がある。スタートしてから半分の100mまではコーナーを走るので、目を凝らしてしっかり見ていても誰が誰よりもどれだけリードしているのかがわかりにくい。スタート後しばらくは内と外の差を目で測りながら走る選手の躍動感を感じ取り、おおよそ誰がリードしているのかを予測することになる。そして後半、ちょうど直線に入る辺りからは各選手の差が明確になってきて、そこからゴールするまでの展開は手に汗を握ってしまう。なので、ぐんぐん加速しているように見えても、直線に差し掛かった頃になって意外にリードしていなかったことがわかるというケースもあり、身体からの躍動感と実際のスピードはそれほど比例しないものなんだなあということにも気付かされる。

でもね、このボルトに関してはこうした見方が当てはまらなかった。スタートして数歩走ったくらいで「あ、もう勝つわ」って感じてしまうのである。誰とどのくらいの差があって、だから後半は上げていく必要があるな、とかいうような分析的視点が入り込む余地がない。周りとの比較ではなく、ただ彼の走りを見ているだけで勝利を確信してしまったのである。「たぶんこのくらいやろうな」という私たちが知らず知らずのうちに抱いている常識的なラインを、はるか超え出たところでの走りだと思う。だからこそ分析的に捉えることなどできずに、そのラインのこちら側にいる僕にはただ「すごい」としか言いようがないのである。

僕の想像のはるか向こう側にある彼の走りは「超絶」である、という認識の中に意識をとどめておきながら、ここからは書いていくことにする。彼の走りのどこがすごくてどこがいまいちだとかという批評ではなくて、「超絶」そのものについてあれこれと語ってみたい。私たちの常識を超え出たところにあるものとしての構えで語ることにしよう。そして、その「超絶」を生み出した精神状態はいかようなものなのかについても想像してみようと思う。


ボルトの走りに感動し、そして今もその余韻に浸っていられるのは、24年ぶりに100mと200mとの2冠を達成したからでもなく、また両種目で世界新記録を出したことでも不滅と謳われたマイケル・ジョンソンの記録を破ったことでもない。もちろんこれらも素晴らしく素晴らしいことなのには異論を挟む余地はないが、それよりもなによりも、人間にとっての限界はこのへんだろうと私たちが高を括っていた常識的なラインを軽く超越したことに、大興奮なのである。

「高を括ることができる」というのは、あれこれと論理的な思考を働かせることを意味している。たとえば100mを9秒台で走ろうとして、そのためにはどうすればいいのかを考えていくとすれば、まずは9秒台で走るスプリンターの走り方を解析して動きを分析し、そこから足の運び方や腕の振り方などの理想的なカラダの動かし方が導き出され、その理想的な動きをするためにはどれだけの筋肉量が必要であり…、などといったデータをもとにして練習が組み立てられることになろう。明確なゴールを定めておいて、それに向かう道筋をあれこれ考えるというプロセスは、各スポーツにおいてはそれぞれの競技特性が加味されてマイナーチェンジを施されるにしても、今日では考え方という部分においては基本的なところは変わらないものと思われる。

こうしたプロセスから導き出せるのは、「ここまでできれば達成とする」という細かなゴールを積み重ねていけば、いずれは大きな目標に到達するという考え方である。「基本」を過度に重要視する風潮も、この考え方によるものであろう。こうした考え方には、だんだんと右肩上がりに上達するプロセスという前提がある。

でもそううまくはいくのだろうか?

もちろんのことながら世間を騒がせるほどの結果を残せるかどうかには、持って生まれた能力に恵まれるかどうかという問題も大きく横たわっており、たとえそこまで断言せずともその競技への「向き不向き」という問題も大きく関わってくる。でもここで僕が言おうとしているのはそうした表面的な話ではない。どの競技においても身体能力の高さだけで世界一になれるはずもないわけで、そこには必ず「努力」というものが介在する。この「努力」の仕方について、僕は語ろうとしている。

100mも200mもそうだったのだが、ボルトの両端で走る選手たちは、必死の形相でもがいているかのように見えた。特にアメリカの選手は、ゴツゴツと筋肉が隆起したカラダを目一杯に力ませて走っているように映った。おそらくボルトがそこに居なければ、こんな印象を抱くことはなかったと思われるが、リラックスしながらあまりに気持ちよさそうに走っているボルトとの対比でそう見えたのである。彼らにしても僕らからすれば仰天するほどのスピードで走っているはずなのに、である。

これは僕の推測に過ぎないのだけれど、ボルト以外の彼らがリラックスして心をより平静な状態に保つことができれば、もっと速く走ることができるだろう。身体の秘める力を存分に発揮している8人のレースは、きっとめちゃくちゃエキサイティングであろうが、でもそうは問屋が卸さない。100mのときのアサファ・パウエルのように、緊張でガチガチになって持ち得る力を発揮できないままに終わる選手の方が圧倒的に多いのである。

ん?「リラックスして走ればいい」だって?
そんなことはわかってるっつーの。
いまさら声高に言うことでもあるまいに。

と、思われた方もいるかもしれないので、先手を打っておいた(笑)。
そんなことは僕にだってわかっている。リラックスすることがパフォーマンスを発揮するためにはどれだけ大切なのかは、僕も身をもって理解している。ただ、でもね、この「リラックスする」ということがどういうことなのかを深くまで思考して発言している人はあまりいないんじゃないかなと思うのだ。

明らかにボルトはリラックスしていた。100mに比べると多少は緊張の面持ちだったが、それでもパフォーマンスの発揮を妨げるほどではなかったように見受けられた。このようにして「精神状態を安定させることができる」のは確実にアスリートとして備えるべき能力の一つである。そして、不安や恐怖の扱い方とも言えるこの能力は一長一短に身につくものではなくて、日々の練習はもちろん日々の生活を送る中で身についていく。親やコーチをはじめとする「師」の存在を意識しながら過ごす時間の中で、知らず知らずに養われる。つまりこの能力は、無意識の中に息吹く。論理的な思考を積み重ねて辿り着こうと試行錯誤しているプロセスにおいては、決して身につくことはない。「意識しないように」との心がけはその構え自体が一つの意識なのである。

「怖いもの知らず」でのイケイケが通用しなくなったときに、人は立ち止まる。不意に芽生えた恐怖とどのように対峙すればいいのかを思案すればするほど、身体は動かなくなる。一度考え出してしまうと、頭ではわかっていてもカラダが動いてくれないという状態が続き、悩む。そんなときに、ひざを抱えるようにして考え込んでしまいそうになる自分を解いてくれるのは、間違いなく「他者」だ。とにかくまずはカラダを動かしてみろよ、と微笑みかけるようにして手を差し伸べてくれる「他者」がいるから、また歩き出せるのである。

「たぶんこのくらいやろう」と高を括っていた常識的なラインを、ボルトは難なく超越した。圧倒的なまでのあの強さが物語るのは、科学的トレーニングや論理的思考の限界である。「科学的」が大手を振ってまかり通っているスポーツ界に吹き込んだ、さわやかな風だと僕は感じた。100mでのおちゃらけながらゴールしたシーンについて、ワイドショーでふんぞり返っている評論者たちの中には、「不謹慎である」「子どもに悪い影響を与えるからけしからん」などと教条的にほざいている人もいたけれど、そんな人たちの言明に付き合っている暇などない。歯を食いしばって困難を乗り越えようとするだけが「努力」ではなく、いついかなるときも平常心を保ち、ときには思わずおちゃらけてしまうように身体を練磨するという「努力」もある。

あれほどの圧倒的なパフォーマンスを説明しようとすれば、他の選手たちとは根本的に何かが違うという視点を持った上で思考を始めなければならないのだが、その入り口あたりで「生まれ持った才能が違う」とかいうフレーズを用いて思考停止になる人がとても多い。あれは別格、モノが違うなどといった短いことばでさっさと片付けてしまう。でもさ、おんなじ人間なんやから、不安や緊張への対峙の仕方とか、恐怖の扱い方とかっていう風に問いを置き換えたら、学ぶべきところはたくさんあると思うんやけどなあ。

ってなことを、ボルトの超絶的なパフォーマンスを見た昨夜から今まで考えていたのでした。

とにかくボルトの走りは私たちの控えめな常識を超越した。ボルトの走りを見て、私たちの世界にもまだまだ未知な部分を残しているんだなと期待が膨らんだ。そしてそれが、誰一人として例外なく与えられている「身体」であることに私たちは希望を抱くことができる。まだまだ私たちの「身体」には潜在力があって、だからこそ何が何やらわからないことだらけなのである。




ちなみに身体的なことで気付いたことが一つあって…
ボルトの走りは肩周辺をとてもしなやかに動かしながら手を振っていたように見受けられた。両手を突いてスタートを待つ姿勢も、他の選手が大胸筋や上腕二頭筋を緊張させながら少し腕を開き気味で力強く構えているように見えるのに対して、肩甲骨を寄せながら首を下に突き出しているかのような姿勢で、196cmの身長の割には腕が狭かった。おそらくこれは肩甲骨の柔軟性というか、うまく使えていることの表れだろうと、目を皿にして画面を見つめていたのであった。