平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「仁義なき戦い」にハマるの巻。

ようやく、やっと、今ごろになって、今更ながらに「仁義なき戦い」を見た。
まだ「広島死闘編」「代理戦争」までしか見ていないのに、
もうすでに広島弁が頭ん中をぐるぐると回っている。
つまりすっかりとハマっているのである。
ああ、なぜにこれまで見なかったのだろうと深く反省。
あおやま姐のブログが、一時広島弁で溢れていたのを思い出して激しく納得。

姐さん、すみません、いまさらオモロイなんていうのもおこがましいのですが、
オモロイです、ホンマに。

どうしても「こんなが…」という言い回しが使いたいのだが、
未だそんな状況に身を置く機会に恵まれていない。
「仁義」に虜な人たちに囲まれて照れが隠れるほどのほろ酔い気分なときには、おそらく確実に広島弁が出る。
というか、関西弁交じりの不細工な広島弁をしゃべり、そうしてしゃべっている自分に悦を感じていることは間違いない。
「あおやま姐とキンソンさんとこに飲みにいかにゃ―ならん」と、
ここんところずっと思っている。

いやいや、それまでにもっと広島弁をマスターせんと。

先ほどまでの会議の中である方が、
「リーダーシップとフォロワーシップ」という視点がこれから必要なんじゃないか、
とくにフォロワーシップという考え方はこれからもっと注目されていい、
とか何とか言う話をされていて、
そのとき直感的に思い描いたのがまさに「仁義」の世界であった。

フォロワーシップとは、要するに「御輿を担ぐ人」である。
担がれる人がたとえアホでもバカでも担ぐ人に器量があればええんじゃと、
確かそんなようなことをしょーちゃんはカッコよく話していたはず。
長が強いリーダーシップを発揮している組織よりも、
フォロワーシップに長けた人間に担がれている組織の方が強固だということなのだろう。山守組の拡大過程をみれば激しく納得させられる。

けれど担がれる人があまりに無能すぎてもそれはそれでどこかにひずみが生ずるわけで、だから若い衆が無駄な命を落とすことになる。

「仁義」から学ぶべきことはホントにたくさんある。
シリーズ最後まで見てからあれこれ言いたいことを書いてみよう。

だからそれまでひとまず「仁義」は封印。
とか何とか言いながらも中途半端な広島弁が出たり、結局「仁義」ネタを披露することにもなるだろうから先に断っておく。

そんなときは、どーか、こらえてつかぁさい。