平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「こころ」なるもの、「身体性」への遥かなる視点

学校に向かう途中の車の中で学生から来たメールを読み、警報発令による全学休講になったことを知る。もともと講義がなかったのでそれほど気に留めることなくそのまま学校に向かい、学生のいないひっそりとした雰囲気に包まれながらこれを書いている。空を見上げると分厚い雲が一面を覆っているが、雨はちっとも降っていないから警報発令の実感はさらさら感じられない。と書いてるうちに弱々しいながら日が差し込んできた。ここんところの天気はホントに気分やさんである。

研究室に着いて新聞を読んだ後にネットを立ち上げて、敬愛なる先生方や知人友人が書き連ねているブログを徘徊する、というのがほぼ日課となっている。

いつもまず最初に訪れるのが「内田樹の研究室」
一日の始まりに先生のブログを読むと激しく知的欲求が刺激されて、時にはあまりにも刺激され過ぎてしまって誰もいない研究室で半笑いの表情を浮かべながらため息にも似た声を出して恍惚感を味わうこともある。「こんな風に考えるんや!」という、およそ想像もつかないほどに本質的な視点を想像的に獲得したことで、とてつもなく大きな納得が得られるのである。そして、「だとすればあの問題はこうなって…。するとあっちの方の問題はこうも解釈できるかもな…」と、一つの視点がきっかけとなり、数珠つなぎのごとく思考が回転し始める。内田先生が語る主題にまつわる諸問題を巻き込んで問題意識の射程が広がり、さらにはそうした主題とは全く違った分野の諸問題にまで広がっていくのがわかる。

およそ本質的なものの考え方というのは、分野を問わず様々な問題に通底しているのである。

という書き方は同語反復になるよな。
「本質的である」ということがそもそもそういう意味なのだから。まあいい。

そういうわけで、今日も先生のブログを訪れた。
すると先生が改訳された『困難な自由』が発売になっていた。
今年中には刊行されるという話も聞いていたし、何よりブログでもちょこちょこ書いておられたから今か今かと楽しみにしていたのである。

僕が尊敬する内田先生の先生であるレヴィナス老師が書かれたものを、内田先生が訳されている(ややこしいが)。だから内田先生がこれでもかと言わんばかりの尊敬の念をこめて訳されているのは想像に難くなく、「内田先生がレヴィナス老師を敬う」という志向性にどっぷりとつかりながら先生の先生であるレヴィナス老師の難解な文章を読み解くという楽しみは、想像しただけで失禁しそうになる。

先生の先生なのだから僕にとっても先生になる。
ややこしいがそういうことなのだ。僕にとっては。

なのでほとんど衝動的に『困難な自由』をクリックして注文を確定させたのである。しっちゃかめっちゃかにドタバタしながら時間をかけて読んでみたい。
それにしても楽しみである。

本と言えばつい先日、なんだかんだと「思考」錯誤しながらも『カイエ・ソバージュ』シリーズ全五巻を読み終えた。これまでの僕自身の常識が覆るほどの衝撃的な思考に触れているにもかかわらず、それが僕自身にとってあたかも今日までの当然な思想であっただろうというある種の懐かしさを感じながらページをめくり続けていた。数万年前にラスコー洞窟に描かれた壁画に「こころ」の発生を見出し、現代人の「こころ」の構造はそのころから何一つ変わっていない。現代人における「こころ」においても、「流動的知性」と称するこころの部分は活動をやめてはいないのだと中沢氏は言う。

ところで、「こころ」の捉え方、考え方について、僕は中村天風先生から多大な影響を受けた(受けている)。天風先生は、満州で軍事探偵をしているときに九死に一生を得、帰国して間もなく当時は死の病とされた結核に患い、救いを求めてアメリカからヨーロッパに渡って転々とするがどうにもならず。失意のもとに帰路についたその船の中でカリアッパ師と出会い、そのまま彼について行ってインドの山奥でヨガの修行に身を浸す。こうした経歴ももちろんだけれど、何よりも中村天風先生のことば(書かれたものしか知らないが)には不思議な力が込められているように感じる。読むたびに納得するのが頭ではなく身体なのだ。正確に言うと、頭を経過して理解するのではなくて、直接「こころ」に響いてくるとでも言おうか。

滝の脇で瞑想する修行の果てに天風先生が身につけたのが「地の声」と「天の声」である。滝の轟音ばかりが気になって瞑想に集中できない状態が続くのは「こころ」が乱れている証拠だとカリアッパ師は説く。よくよく耳を澄ませば、滝の轟音に遮られている鳥のさえずりや木々が風に揺れる音などが聞こえるはずである。実際には聞こえているはずのそれらの音が聞こえないのは、滝の音に「こころ」がとらわれているからである。「こころ」の持ち方を変えるだけで聞こえる音や声がある。これを「地の声」と呼ぶ。

そして、「地の声」に気づいた後は「天の声」が聞こえるのだという。「天の声」と言うのは、言ってしまえば「声なき声」のことで、なーんにも聞こえない状態のことをいう。つまり、耳に入ってくる様々な音を「この音は気にしてこの音は聞こえていないふりをして」というように分け隔てることをしなくなれば、どんな音も耳に入ってくる。まさに「ただ聞こえる」という状態は、実感としてはなーんにも聞こえない状態つまりは「絶対のしじま」になるというわけである。それが「天の声」なのである。

なんだか難しいことを言ってるようだけれど、滝ではなくたとえばその音を電車が走る音だったり、街中を歩く中で聞こえてくる音だったり、もしくは喫茶店でたまたま隣り合わせになったでかい声でしゃべりまくる若者集団に置き換えてみれば、なんとなく実感としてはわかるだろう。そうした音を気にしないようにすればするほど気になるのはすなわち「こころ」が乱れているからで、私たちの意識が否応なくそちらに向いてしまうことが原因となる。「気にしないようにする」という態度は、「気にしないようにするという仕方」で気にすることに他ならず、本当の意味での「気にしない」ということにはならない。「気にしない」ではなく「気にならない」という状態になるためには、「こころ」の持ち方を変える必要があり、「こころ」をしっかりと保つための本質的な方法を天風先生は説いているのである。

ここまでを読み返してみたらなかなか分かりづらい文章だったので、せめてニュアンスくらいは分かって欲しいと願って、天風先生が語る、「天の声」についてのカリアッパ師のことばを引用しておきたい。


「考えてごらん。おまえは文明の民族で、新しい教育を受けてる人間だから知ってることだろうが、お互いが今こうやって立っているこの地面はな、西洋の時で言うと、一秒に20マイルの速力でバーッと回ってる。音でも光でも波長が非常に長いのと短いのは感覚しない。だから、何にも聞こえてないだろ。その聞こえてないなかに音があるんだよ。それが天の声だ。天がその音をみんなもっていっちゃってるから聞こえないんだ。」(『盛大な人生』中村天風P.221

「無意識」の存在を、主観的な体感という点から指し示しているとも解釈できそうな箇所だと僕は思うが、いかがなものか。

とまあ話は飛びに飛んだけれど、つまり「こころ」という問題はできる限り繊細に考える必要があると僕は考えているわけで、特にスポーツ界においては「根性主義」という根拠も思想も垣間見ることのできない限りなく一義的な意味しか持たないことばが蔓延していることから、それは強く強調しておきたい。

ただ、だからといって直ちに心理学的な手法を用いることにはいささか腰が引ける部分がある。そう考える背景には、天風先生にしても中沢新一氏にしても、「こころ」ということばを用いているものの、実のところ言わんとしているのはまさに「身体性」のことだと思うからである。「こころ」を単体で考えることは、「こころ」の性格を考えればほとんど意味がない。心理学的な手法はいささか「こころ」を単独で捉えているように思えるので、どうしても納得がゆかないのである。

天風先生の「こころ」、
中沢新一氏の「流動的知性」、
内田先生のテクストから滲み出てくる「身体性」、
甲野先生の「身体」そのもの、

「こころ」すなわち「身体性」についてはわからないことだらけだけれども、ふとした瞬間に訪れる「わかったような感覚」に酔いしれ、そのうちにしばらくして押し寄せてくる「以前にも増してこんがらがってくる感覚」に打ちひしがれるというサイクルが何ともいえず心地良い。そうした繰り返しの中にどっぷり浸かりながら研究していこう。