平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

ルーティンについて考えてみたところ…。

秋学期が始まってからというもの、定期的に講義があるために(大学教員なので当たり前である)1週間のペースが定まってきている。
講義の準備にはなにぶん時間がかかるため、それに合わせて1週間のスケジュールを組むことにしており、さらには学科会議や各種委員会が否応なく詰め込まれるから、必然的に日々のペース配分が定まってくるのである。

だいたい同じようなスケジュールとペースで日々を過ごすというのはなかなか心地よいものである。日曜日の夕方に放送されているサザエさんを見たときに感じる、楽しかった休日の終焉と次の日から始まる1週間への憂いのようなどこかもの悲しげな感情は、毎週同じような生活を過ごしているからこそ生まれるものだろう。
サザエさんを見ているという状況に身を置くことで、今までに数限りなく過ごしてきた日曜の夕方の風景が瞬間的に甦ってきて、それと同時にその時に感じていた心の有り様までもが想起される。それはつまり、ある日の同じ時間に同じ場所で過ごし続けたという経験が身体に刻まれているということであり、その時と同じ時間同じ場所に身を置いた途端に、予期することのできないある種の感情が外部から到来する。おそらくこうしたかたちで私たちは「懐かしさ」という感情を抱くのだろうと思う。「また明日から学校やなあ」という、嬉しいのか悲しいのか人それぞれに異なる何とも言えず甘酸っぱい想いというものが、時を超えて心に去来するのである。

たぶん、身体というものはそのようにしていろいろな想いというのを蓄えていくのだろう。規則的な生活をすることによって意識的な心の作用が一つにまとめられ、淡々と日々を過ごす中で知らず知らずのうちに身体はたくさんの想いを獲得していく。規則的な生活というのは「やらなければならないことが時間的に決まっている」ということだから、その時がくれば自ずとそれを遂行すればいいわけで、絶えず変更を繰り返さなくていい分だけ余計なことはしなくても済む。

ここでひとつ断っておきたいのだが、だからといってやるべきことさえやっておけばいいということではなく、その場その場に応じて臨機応変に対応することは行っているわけであって、ただ単に言われたことだけを遂行しておけばいいというものではない、ということである。僕が言いたいのは、講義と会議と委員会だけを滞りなくこなすという観点からの話ではない(当然のことだが)。スケジュールの大枠がカチッと決められていることについての話であって、何もかもをマニュアル的にこなすというものではないということは理解しておいて欲しい。

さて話を戻す。

スケジュールの大枠がほぼ決まっているという生活をしていると、無意識に基づく考え方が身体に根付くのではないかということである。無節操に垂れ流されるメディアからの情報やネットの世界で渦巻いている有象無象の情報は、今や社会のどこにいても目にすることができるし耳に入ってくる。たとえば録画したラグビーの試合を試合結果を知らないままに見ようとすれば、意識的に情報を遮断しなければならない。違う情報を得ようとしてネットを開いたときに思わず試合結果を知ってしまうといった事態も起こるし、親切心で知らせてくれたであろう友だちからのメールを見て唖然とするということも過去にはあった。今の私たちを取り巻く社会は間違いなく情報が錯綜し、氾濫しているのである。

そうした不意打ちに到来する情報に身構えることは、言わば常に意識を作動している状態なわけで、「こうなったらこうしよう」という対蹠的な思考が頭の中のほとんどを占有しているとも言えるだろう。起こりうる事態に備えるべく準備万端に身構えることは、なかなかしんどいものである。しかもそれが習慣化してしまうと、標準的な身構え方が「意識モード」になるわけで、これでもかと神経をすり減らさずにはいられなくなる。想像しただけでも「あー、しんど」である。

大枠なスケジュールが決まっているというのは、余計なことを「意識的に」考えることなく、ただひたすら流れのままに目の前のことを遂行するというメンタリティを誘発する。だってやることが決まっているんだから。やらなきゃならないんだから。1から10まで方法が決まっており、その方法を単に準えるという仕方ではなくて、決まっている大枠の範囲の中で「あーだこーだ」と考えることは、意識的ではなく無意識的な思考と言えるのではないだろうか。

あー、まったく、ここまで書いてきていったい僕は何を言わんとしているのかがわかんなくなってきた。自分の中ではクリアに理解できていると高を括っていた内容なのに、いざことばを紡いでみればほとんど意味不明になってしまう。

うーん、まだまだ思考が足りないということだ。

さて明日は火曜日。
3連休ということでいささか体内スケジュールが狂いつつあることを十分に自覚して、明日から始まる1週間に臨むことにしよう。

しかし、また(もう)1週間が始まるのか。
それにしても時間が経つのは早いものである。